朝来 6月21日(深夜)

文字数 2,470文字

 国王の葬儀の後のことだった。月明かりだけを頼りに、使い古したよれよれの旅行鞄を持って朝来(あさぎ)は犀座騎兵団の基地を出た。澄んだ空気がくたびれた体を癒すように心地よかった。雲のない夜空は0境国では珍しい。天体観測をするには素敵な夜だ。こんな日にヨザクラが飛んだならさぞ美しく輝くだろう・・・犀座小屋の横を通る時気を紛らわすため、こんな風に出来る限り周囲に五感を研ぎ澄ませて他のことを考えるようにした。
 豊かで艶のある長かった黒髪を不揃いに短く切り、だぼついたズボンに黒いニット、安物の色褪せたトレンチコートを羽織った姿は一見女性には見えなかった。少なくとも彼女を知る者からすれば、普段の爽やかで白いシャツの似合う清潔感のある朝来とはかけ離れていた。基地を出る時、犀座の嫌がるジャスミンの香りをまとおうかと考えたが、ジャスミンはどうしても女性的な香りがするためやめることにした。それに他の人間に香りを嗅ぎとられては意味がない。
 騎兵団の敷地を出ると、少し解放された気分になれた。今まで自由を奪われていたわけでもないのにそう思うのはなんだかおかしかったが、朝来にとって今日は特別だった。もうここには帰らない、犀座達には二度と会わないと決意したのだ。
 しかし勢い任せに出てきたようなもので、解放感と同時に恐怖心も芽生えた。やろうとしていることはあまりにも無謀だった。
“とにかく五十鈴国へ行ければいい”
 朝来は自分に言い聞かせた。今更弱気になっても後戻りできない。
 五十鈴国からの定期船は毎月二十二日、時間は決まっておらず、船が港に近づくと汽笛がなった。船員でもない朝来にはそれ以外に船が来る合図がわからず、その日一日根気よく港で待機していなければならない。

 朝来の逃亡計画は十分とは言えなかった。戦闘犀座育成に自信を失くし、もうずいぶん前から騎兵団を抜けたいとは思っていたものの、自分の育てた犀座達が彼女を思い留まらせていた。それが今実行に至ったのは、国王の代替わりのどさくさに紛れるためだった。ファイアノイドは探し出そうとするだろうが、訓練士が一人いなくなったぐらいで国は動かない。王を失って世継ぎ問題を抱えた今ならなおのこと騎兵団にかまっていられない。ファイアノイドに協力する可能性があるとすれば、昔から彼と親交のある国境警備隊か。そこの頭首とファイアノイドは古い付き合いのようだが、どこまで協力的かは朝来にはわからなかった。何にせよ、綿密な計画など持たずに勢い任せに髪を切り、すぐに自分だとはわからない風貌にして出てきたのだ。
 余分に時間はかかるが都を避けて山間の方から港を目指そうと考えていた。今は二十一日になったばかりの深夜、どこかに宿泊する必要があるが、宿をとらずに野宿しようと覚悟した。
 基地を離れ小一時間。なだらかな山道を黙々と登り続けると辺りの風景が開けてきた。北西に都の夜景が広がっている。明日、いや今日の朝がいつもと違うのは自分の他に誰がいるだろう?考えても意味のないことが浮かんでくる。新しい何かが始まるわくわくする朝ならいいのだが、残念ながらそうではない。
 足を止めると急に疲れを感じた。山道で休むことを想定していたが、道の途中に腰を下ろせるような場所はない。もう少し行けば休憩できる空間があるかもしれない。そう思って先に進もうとした時だった。暗い木と木の間に、きらりと光るものを見た気がした。朝来の体は固まってしまった。後ずさりするような体勢で木々の間に目をこらす。また一瞬、光が見えた。今度は数が増えた。がさがさと音を立てて近づいてくる。朝来は逃げようと足を出したが、石ころにつまづいて前のめりに倒れてしまった。激しく両手をついて手のひらを擦りむいた。ひりひりと伝わってくる痛みを感じながらも立ち上がり、前方を見上げた時、その生き物は木々を抜けて朝来の前に現れた。


 二頭の子犀座だった。朝来もよく知っている生後十ヶ月の双子である。
「アカガラ、イブスキ・・・」
 朝来は二頭を見つめた。戸惑いと、ほっとした思いが両方あった。二頭の犀座は朝来にすり寄っていき、頭を下げた。これは子犀座が親にする愛情表現に近かった。
「なぜここにいるの?小屋を抜け出してきたの?」
 答えるわけもなく、犀座は朝来のそばをうろうろし始めた。
 桃色のアカガラはおっとりした運動嫌いの雄犀座、鉛色のイブスキは子供ながら足の速さで騎兵団中一、二位を争う雌犀座で、戦闘犀座としての能力を有望視されている。
「今日の小屋の鍵当番は・・・(さざなみ)か。訓練後はちゃんと全員の顔と名前を確認しながら数えるようにあれほど・・・」
 朝来は後輩訓練士のことを思うともう何も言えなかった。犀座だけではなく、訓練士のリーダーであった彼女は後輩達の育成も放棄したのだ。
「ごめんね。あなた達のことは大好きだけど、もうあそこにはいられない」
 朝来は再び歩き出した。コートについた砂を軽く落としながら歩く彼女の後ろには二頭の犀座がついてきた。しかし朝来は二頭を追い返しはしなかった。
 しばらく歩くと小さな原っぱに出た。どこからかせせらぎが聞こえてくる。登山者が休憩できるように丸太のいすが置かれている。煌々と輝く都の夜景を前方に、朝来は丸太に腰かけた。アカガラとイブスキは朝来をはさんで両隣にぴったりとくっつくように、丸太に前足を引っ掛けて座った。朝来は彼らの背中をなでた。心細さが大分和らいだ。なんだかお腹も空いてきた。
「あんたたちの分は考えてなかったわ」
 鞄からサンドイッチの包みを取り出した。ライ麦パンで作った手製のサンドイッチが二つ。さらに鞄の中を探り、りんごを二つ取り出した。二頭に一個ずつ差し出すと、うれしそうに口元でりんごを転がしながら食べ始めた。その様子を見ながら朝来もサンドイッチを一口食べた。ハムに塩をきかせすぎていた。しかしそれで良かったのだ。一人だったら味を感じる余裕なんてなかっただろうから。
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