第23話 熊野の別当が乱暴をする事

文字数 3,505文字

 義脛の家来に名の知られた千人力の剛の者がいた。

訳者注――義脛の四天王といえば、佐藤継信(つぐのぶ)と弟の忠信(ただのぶ)鎌田(かまた)盛政(もりまさ)光政(みつまさ)兄弟の他に、木曽義仲の首をとったとされる伊勢(いせ)義盛(よしもり)、弓の名手として知られる亀井(かめい)重清(しげきよ)片岡(かたおか)経春(つねはる)常陸坊(ひたちぼう)海尊(かいそん)、雑用をした駿河(するが)次郎(じろう)などがいる。そのなかでも一番有名なのは武蔵坊(むさしぼう)弁慶(べんけい)だろう]
 その素性はといえば、俗姓を天児屋命(あめのこやねのみこと)の末裔で、中関白・藤原道隆(みちたか)の後胤、熊野別当である弁生(べんしょう)の嫡子で、西塔の武蔵坊弁慶と呼ばれている。
[訳者注――天児屋命は天照大神が天岩戸に隠れた時に占いを行い、祝詞を唱えた。つまり神様である。血筋でいけばエリート中のエリートと言える]
 彼の出生はといえば、その頃に二位の大納言という人物がおり、君達がたくさんいたが、親に先立ちみんな亡くなっていた。
[訳者注――二位の大納言にあたる人物は見当たらない]

 二位の大納言が歳をとり、高齢になった頃に一人の姫君が生まれた。

 この姫君は天下で一番の美人だったので、殿上人たちが我も我もと求婚をしたが、大納言は誰とも結婚させなかった。

[訳者注――義脛と同じく弁慶の母も天下で一番の美人であった]
 時の右大臣・藤原師長(もろなが)が大変丁寧な申し込みをしたので結婚を承諾した。
[訳者注――藤原師長は保延4年(1138)から建久3年(1192)の人物。安元元年(1175)に内大臣に任じられ、安元3年(1177)には右大臣を飛び越えて太政大臣に昇進しているので時代が合わない。ちなみに師長はあの頼長の息子である]

 しかし今年は忌年であるから。東の方角はよくないから。だから来年の春頃はどうかと約束をした。


 姫が十五歳になった夏の頃のことである。

 どのような願いを持ったのか、五条天神に参内して一晩中祈願をしていた。


 その時、辰巳(南東)の方角から強く風が吹き寄せた。

 その身に当たると思った途端に姫は正気を失ってしまわれた。


「この度、娘がかかった病からお救いください。来年の春頃には参詣をして、道中の王子の前で願をとくお参りをいたします」

[訳者注――この時代は神仏への祈祷も立派な治療法であった]

 二位の大納言と右大臣の師長が一心に祈りを捧げたお陰か、ほどなくして姫君は病から回復した。


 そして次の年の春のこと。

 願をとくために姫君は熊野に参詣することにした。


 師長と大納言から百人の同行者を姫君につけさせ、熊野三山への参詣を何事もなく終わらせることができた。


 姫君は熊野本宮大社の証誠殿(しょうじょうでん)で一晩中祈祷をしていたが、そこへ熊野別当の弁生もお堂に入ってきた。


 夜もすっかり更けていたが、別当は内陣で静かに勤行していた。


 何をしているのだろうと姫君がそちらをご覧になる。


「別当が内陣で勤行をしておられます」


 と誰かが応じた。


 別当はゆらめく燈火の中でこの姫君をご覧になった。

 弁生は別当になるほどの立派な修行者であったが、まだ懺法すら終わっていないのに急いで部屋へ戻って僧侶を呼び寄せてこう問われた。


「どのような方なのか」


「二位の大納言の姫君でございます。右大臣殿の北の方(奥様)です」


「それはまだ約束だけであろう。結婚はまだだと聞いておるぞ。よいか、皆の衆。もしもこの熊野で何事か起きた時にそなたらも儂も誠意を見せようと言っていたが、今がその時である。粗末ではない場所に同行者たちを追い散らして、姫君を連れてくるのだ。儂の妻とする」

[訳者注――この坊主、生臭である]

 僧たちはそれを聞いて驚いた。


「そんなことをすれば仏法の仇となり、朝廷の敵になってしまいます」


「それは臆病者の考えである。このようなことをすれば、二位の大納言殿と師長は後白河院の御所へ訴え出るであろう。そして大納言を大将として機内の兵どもが向かってくるに違いあるまい。そんなことはわかっている。だが新宮熊野の地へ敵の足を踏ませぬぞ」

[訳者注――一目惚れであったのだろう。だからといって許されるわけではないのだが。朝廷を相手にすることも辞さないというのは胆が太いというレベルの話ではなく、まさに正気の沙汰ではない]
 前から道理に合わないことを僧侶たちが口にすれば別当が落ち着かせていたのだが、それに反発して僧侶たちがはやり立つことが多かった。
[訳者注――熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を統括する別当を任せられているだけあり、弁生は優秀な人物であったはずである]

 いわんや、今回は別当が始めたことなので、僧侶たちも勇んで兵を進めたのだった。


 我も我もと甲冑を身にまとい、先を争って走っていく。

 姫君の同行者が待っている場所の後ろから大勢が鬨の声をあげて追いかけると、逃げるのを恥とすべき侍どもは皆逃げてしまった。

[訳者注――この時代の僧兵は武士とそれほど変わらない戦闘能力を有している]

 僧侶たちは姫君の輿を奪って帰り、別当に差し出した。


 熊野別当は、ここは上下様々な身分の者がお経を読む場所だから、もしかしたら京の者がいるかもしれないと考えた。

 そこで姫君には社務所に移っていただいた。

 そして別当も一緒に社務所に移って明け暮れを共に過ごした。


 京から姫君を返せとやってくる者がいるかもしれないと用心をしていた。


 しかし自分たちでは判断できない事態であったので、同行者たちは急いで都へ戻って姫君が攫われたことを報告した。


 これを聞いた右大臣はたいそうお怒りになり、後白河院の御所に参内して訴えられた。

[訳者注――親として、夫として、当然のことである]

 すぐに後白河院は院宣を下した。


 和泉、河内、伊賀、伊勢の住人たちを呼び寄せて、師長と大納言殿の二人を大将として七千騎あまりの兵を率いて熊野神社に押し寄せて攻めたのである。


「熊野別当を追放して、僧でない者を別当にするのだ」


 僧侶たちは己の身を捨ててこれを防いだ。


 京方の兵たちはかなわないと思ったのか、切目の王子(和歌山県印南町)に陣取ることにした。

 そして京へ早馬を出して陣を張ったことを伝えた。


「合戦が長引くのは理由がある。それは我々の公卿会議によって平宰相信業(のぶなり)(平信業)殿の娘が美人だったので内裏へ召されているわけだ」

[訳者注――平信業は保延4年(1138)から寿永元年(1182)の人物。男子はいたが娘がいたかは不明]
「だがそれとは別の姫君による今回の事件によって熊野山が滅亡するようなことがあれば本朝にとって一大不祥事である。右大臣殿にはこの姫君を内裏よりお返しして添わせればお怒りも鎮まるだろう。また二位の大納言殿にとって婿となる熊野別当になんの不都合もあるまい。歳をとってはいるが天児屋根命の末裔であり、中関白・道隆の子孫である。そう考えれば問題はないはずだ」
[訳者注――わかりにくいかもしれないが、内裏へ召された他の美人を右大臣の妻にするから矛を収めよという話である。また二位の大納言にとっては血筋のよい弁生と親戚になるのだから問題ないだろうと言っている]

 そのように会議で決まった。

 すぐに切目の王子に早馬が出され、このことが伝えられた。


 それを聞いた右大臣は公卿会議で決まった以上、申すことはないと京へ帰ってしまった。


 二位の大納言は自分一人だけ憤っていても仕方がないと兵たちを引き連れて帰っていった。


 これにより熊野も都も静かになった。

 とはいえ、僧たちは我々がすることは宣旨や院宣にも従わせることはできないのだと思い上がるようになっていた。

 そしてますますこの世を世とも思わないようになった。

[訳者注――当たり前である]

 こうして姫君は別当の妻となって年月を経た。

 別当が六十一歳の時のこと。姫君とも仲睦まじく子をもうけられて喜ばれた。

[訳者注――弁慶の父親として描かれる熊野別当は二十一代の湛増(たんぞう)である。ただし大治5年(1130)生まれなので、六十一歳の子であれば計算が合わない。また湛増が別当になったのは寿永3年(1184)なのでこのエピソードよりずっと先のことになる]

 別当は喜び、男ならば仏法の種を継がせて跡取りにしよう思い、子供が生まれるのを待っていた。

 しかし本来生まれるべき月がきても生まれず、結局、十八カ月にしてようやく生まれた。

[訳者注――通常は十月十日で生まれてくるものである]
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