第22話 義脛、鬼一法眼の所へ行った事5

文字数 1,569文字

■承安5年(1175)12月

 法眼の屋敷は門を閉ざし、橋も外されていた。

 ただいま義脛が戻ったと門を叩いたところで開けることはないだろう。

[訳者注――橋が上がっているので屋敷へ誰も出入りができない状態になっている]

 この程度ならば飛び越えて入ればいいと幅一丈(約3メートル)の堀を飛び越え、八尺(約2.4メートル)の土塀へ飛び乗った。

 それはまるで木の梢に鳥が飛んでいるかのようだった。

[訳者注――生来の身軽さに加え、六韜により驚異的な跳躍力を得たのがこの描写からわかる]
 中に入って様子を見ると、当番の者も非番の者もみんな寝ていた。
[訳者注――普段なら厳重な警備をしているが、この時ばかりはそれを解いているのがわかる]

 そこで縁に上がって部屋の中を見ると、法眼はかすかな明かりの中で法華経の二巻目の真ん中あたりを読んでいるところだった。


 その時、法眼がふと天井を見上げる。


「結局、六韜の兵法を一字も読むこともなく逝ったか。南無阿弥陀仏」

[訳者注――鬼一法眼は義脛の到着を察知し、湛海の運命を悟っている]
 それを聞いた義脛はこの太刀の背で法眼を打ち据えてやろうとしたが、そんなことをすれば娘が悲しむと思って心を静めた。
[訳者注――義脛が屋敷をたずねて来た時に声をかけた者が法眼に対して「太刀の背で一打されないようにお気を付けください」と忠告していたのを思い出してほしい]

「なに用だ」


 法眼の部屋に末姫が入ってきた。


「実はこのような物を見つけてしまいました」


 娘の手には奇妙な面がある。

 その面に義脛は思い当たるところがあった。


 それは鞍馬山で義脛に剣術を教えた大天狗がつけていた面だったのだ。

[訳者注――『牛若の貴船を詣でるの事』で義脛に京八流の剣術を授けた大天狗が鬼一法眼であったと判明した瞬間である]

「義脛様はご無事でしょうか」


 涙に濡れた娘が法眼に縋りつく。


「湛海ではかなうまいよ。あの若者は儂が剣術を教え、奥州で兵馬のなんたるかに触れ、そして今また儂の屋敷で六韜を学んだ。いずれ大将軍になる器であろう」

[訳者注――鬼一法眼はすべてを知っていたのがこのセリフからわかる]

「それがわかっていながら、何故、このようなことをされたのですか」


「湛海が平家の者と繋がっていたからだ。儂がいつものように湛海を処分すれば平家との間に波風が立つ。だからあの者に任せたのだ」


「やはりあの方は平家に仇なすのでしょうか」


「そうなるであろう。かつての儂は源氏にお仕えしていたが、今では娘を平家に嫁がせている身。今できるのはこの程度なのだ」

[訳者注――世の流れとして、特に京で暮らす者は平家に連なっていなければ栄達できなかった。まさに『平家にあらずんば人にあらず』である]
「山で一人、腰の抜けたような舞を踊っていた者が今では立派な若武者になっている。喜ばしいことだ。平家の世は長くあるまい」
[訳者注――「腰の抜けたような舞」とは『牛若の貴船を詣でるの事』で大天狗が義脛にかけた台詞である。そして『義脛、鬼一法眼の所へ行った事1』でも同じ台詞を口にしている]
「そしてお前もそうであろう。お前を手元に置いておいたのは、長くない命ゆえのこと。せめて一時でも幸せな時を過ごしてほしいと考えていた」
[訳者注――一時的ではあっても末姫が義脛と結ばれることを鬼一法眼が望んでいたのがわかる]

「ありがとうございます。お陰で私はあの人と結ばれることができました。この上、なにを望むことがあるでしょう。このままお会いすることなく最期を迎えようと思います」


 そうして親子は互いに手を握りあい、涙を流したのだった。


 二人の会話を聞いていた義脛はすべてを知り、自分を鍛えてくれた大天狗に心の中で感謝をした。


 そして持ってきた首を門の前に置き、そのまま姿を消し、山科へと帰ったのである。

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