第24話 弁慶、生まれる事

文字数 3,219文字

 別当はこの子が遅く生まれたことが不思議に思われたので、産所へ人をやって尋ねた。


「どのような子なのだ」


 生まれてきた段階で既に二、三歳の大きさで、髪は肩が隠れるほどまで伸びており、奥歯も上あごの前歯もとりわけ大きく生えた状態で生まれてきましたと報告があった。

[訳者注――このように生まれた時点で他とは違う姿をしている者の例としては、三年間も母の胎内にいた酒呑童子が有名であろう]

 それを聞いた別当はこう決断をした。


「きっと鬼子(おにご)に違いあるまい。こやつを生かしておけば仏法の仇となるだろう。水の底に沈めるか、山奥で磔にするのだ」

[訳者注――生まれた時点で歯が生えている赤子は鬼子といって縁起が悪いものとされていた]

 母の姫はこれを聞いて、嘆き悲しんだ。


「それはその通りなのでございましょう。ですが親となり、子となるのはこの世の限りの縁ではないと聞いております。どうして産まれてすぐに失うことができるでしょう」


 この頃、山井(やまのい)三位(さんみ)という人の北の方(妻)は熊野別当の妹であった。

[訳者注――山井三位といえば藤原永頼(ながより)であろうか。しかし承平2年(932)から寛弘7年(1010)の人なので時代があわない]

 別当の許を訪ねて、どうして幼子の様子がおかしいのかと問いかけた。


「人が産まれるのは九カ月、十カ月と決まっているものだ。それなのにあの子は十八カ月もかかって生まれた。命を助けたとしても親の仇となるであろう。助けてはならぬのだ」


 叔母にあたる山井の御前はこれを聞いて、こう言った。


「お腹の中に長くいて生まれた子が親に害をなすと言うのですか。中国の黄石(こうせき)公は母親のお腹で八十年も過ごし、白髪が生えた状態で生まれてきたというではありませんか。そして二百八十歳まで生き、背は低く、肌の色が黒かったので他の人には似ていなかったそうです。けれども八幡大菩薩の使者であり現人神と称えられています」

[訳者注――黄石は秦の時代の人物。張良に兵法書の六韜を与えたとされている]

「ここは道理を曲げて私に預けて下さい。京に連れて行って、優れた者に育ったのなら三位殿に仕えさせましょう。能力が低いようなら法師にして、お経の一巻でも読ませたら僧の身分として罪を作ることはないでしょう」


 それならばと叔母に預けることにした。


 叔母は産所に行って産湯で赤子の体を清め、鬼若(おにわか)と名付けた。

 五十日(いか)の祝いが終わってから、鬼若を連れて京へ行き、乳母をつけて大切に育てた。

[訳者注――五十日の祝いは子供が産まれて50日目に行われるお祝い行事のこと。赤ん坊の口に餅を含ませる。平安時代に貴族の間で行われていた]

 鬼若は五歳の時点で他の人であれば十二、三歳ほどに見えた。

 六歳の時に疱瘡(ほうそう)という病にかかり、一層肌の色は黒く、髪は生まれた時からそのままなので肩より下まで伸びていた。

[訳者注――疱瘡は天然痘のこと。死亡率の高い病気の一つで、死に至らなくても顔や体にひどい痘痕(あばた)を残すことになる]

 髪の様子だけを見ても元服させて出仕させるのは難しいと思われたので、法師にしようと考えた。

 そして比叡山の学頭(がくとう)であった西塔(さいとう)桜本僧正(さくらもとそうじょう)の許を訪ねた。


「この子は山井三位殿の養子でございます。学問をさせるため僧にさせようと思います。見た目の姿かたちはよくなく、お恥ずかしい限りですが、なかなか賢い者です。お教の一巻でも読ませて下さいませ。不調法なところがありましたら直してください、どのようにも思うままにお願いいたします」

[訳者注――義脛も母である常盤に似たような経緯で鞍馬寺に預けられているのが『牛若、鞍馬寺に入るの事』で描かれている]

 そう言って比叡山に上らせた。


 こうして鬼若は桜本僧正の許で学問をしていたが、月日が経つにしたがって学問に取り組む姿勢は他の人に勝るようになっていった。

 学問の覚えは稀に見るほど優れていた。

[訳者注――基本、優秀であったのがわかる]

 そのため他の僧たちも


「姿形はどうにも見てくれが悪いが、学問こそが大切なのだ」


 と誉めたほどだった。


 学問にだけ真剣に取り組めばよかったのだが、腕の力も強く体格も骨太で立派であった。


 小坊主や若い法師たちとよく遊び、人が行かないようなお堂の裏側や山奥に篭って、腕取りや腕押し、相撲などを好んでいた。

[訳者注――腕取りは互いの腕力を競う遊びで、腕押しは今でいう腕相撲のような遊びのこと]

「自分が落ちこぼれになるだけならまだしも、この比叡山で学問をする者たちをたぶらかしてよくないことをさせるとはとんでもないことだ」


 そのため桜本僧正への訴えが絶えることはなかった。


 しかし鬼若はこのように訴えてくる者を敵だと思っていた。

 そして訴えた人のところへいって、板戸や妻戸を散々に打ち壊した。

 鬼若の悪事や乱暴は誰もおさえることができずにいた。


 その理由は、鬼若の父親が熊野別当であることにあった。

 しかも養父は山井三位殿で、母方の祖父は二位大納言であり、師匠は三千坊(さんぜんぼう)(比叡山)の学頭である。


 そんな鬼若に対して指を差して注意をしてもよいことはないだろうと思い、ただ放置されていたので乱暴者になってしまったのだ。

[訳者注――幼い頃に道理を正しく教えてもらえなかったことが、弁慶の人格形成に大きな影響を与えたのであろう]

 こうして相手は変わっても鬼若の振舞いは変わらず、諍い事が絶えることはなかった。


 拳を振るったり、相手の首を締め上げたりしたので、人々はおちおち道を歩くこともできなかった。


 たまたま鬼若と行きあってしまった者が道を避けるほどで、その時は何事もなく通り過ぎても後で会った時に


「そういえば前に行きあった時に道を避けたのは何かの遺恨でもあったのか」


 と問い詰めた。

[訳者注――本当にただの難癖である]

 恐ろしさのあまり膝を震わせている者の肘をねじり上げて、拳で胸を押して骨折させることもあった。

 まさに鬼若に行きあう者にとっては不運としか言えなかった。


 ついに比叡山の僧たちは話し合いをした。

 たとえ桜本僧正の小坊主であろうとも、鬼若の振舞いは比叡山の一大事であるとして、三百人の僧が後白河院の御所へ参って訴え出た。


「それほどの悪行をなす者であるならば、すぐにでも山から追い出してしまえ」


 という院宣が下りたので僧たちは喜んで比叡山へ戻った。


 改めて公卿会議があり、誰かが古い日記を調べた。


「六十年に一度、比叡山に不思議な者が出てきて、朝廷が祈念することがある。それを院宣によって鎮めようとすれば、一日のうちに天下無双の御願寺を五十四ケ所も建てなければならなくなると書いてある。今年がその六十年に一度にあたる。だから放っておくべきだ」

[訳者注――朝廷で働く貴族たちは、様々な過去の出来事を日記に記しており、これを前例として政を行ってきた。これもその一例である]

 と申した。


「鬼若一人と三千人の僧を比べるとはなんたることか。それならば山王権現の神輿を担いで強訴(ごうそ)するよりほかにない」

[訳者注――この時代、神仏の権威をかざして僧たちが集団で朝廷に対して訴えを起こしているが、これを強訴という。比叡山延暦寺はこの強訴をたびたび起こしている]

 と僧たちが憤った。


 すると朝廷は山王権現に御料を献上したので、僧たちもこれ以上はと鎮まった。


 この事を鬼若には聞かせるなと隠していたのだが、いったいどれほどの愚か者だったのであろうか、これを知らせた者がいた。


 鬼若は「いったいどういうことだ」と言って、さらに乱暴の限りを尽くした。


 桜本僧正も鬼若を持て余していた。


「もしそれが事実ならば反省しなさい。もし事実無根ならば気にすることはない」


 それだけ言って特に咎めることもなかった。

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