第10話 遮那王殿が元服するの事
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■承安4年(1174)2月
熱田神宮の前の大宮司は父・義朝の舅(藤原季範)であり、今の大宮司は小舅(範忠)にあたる。
また、兄・頼朝殿の母も熱田の外浜というところに住んでいた。
この人たちは父の形見だと思った遮那王は、吉次を熱田神宮へ使いにやった。
遮那王が訪れたことを聞いた大宮司は急いでお迎えに参上し、あれこれとおもてなしをした。
翌日、遮那王たちが出発しようとすると、あれこれと理由をつけて引き止められたので、それから三日も熱田に滞在することになった。
その時に遮那王が吉次に対してこう言った。
「稚児姿のまま奥州へ下るのはよくないだろう。仮とはいえ烏帽子を被って元服してから向かおうと思うのだが、どう思う」
「どのように考えられてもよいかと存じます」
そこで大宮司が烏帽子を用意し、髪を取り上げ、遮那王に烏帽子を被せた。
「こうして奥州へ下ったとして、秀衡に名前をなんというのかと問われた時に遮那王と答えては男として情けない。ここで名前を改めずに行けば、おそらく改めて元服した方がよいと言われるに違いない。しかし秀衡は代々源氏に仕えている家来である。それに他の者の謗りを受けるかもしれない。幸い、ここは熱田神宮の御前である。しかも頼朝殿のお母上もこの地におられる。だからここで名を改めよう」
そう言って精進潔斎して熱田大明神にお参りをした。
大宮司と吉次も一緒に参内したので、遮那王は二人にこうおっしゃった。
「父・義朝殿の子供は、嫡男は悪源太(義平)、次男は朝長、三男は兵衛佐(頼朝)、四男は蒲殿(範頼)、五男は禅師の君(阿野全成。本当は七男)、六男は卿の君(義円。本当は八男)、七男は悪禅師の君であり、私は左馬八郎と呼ばれるべきところだ」
こうして昨日までは遮那王であったが、今日からは左馬九郎義脛と名前を変えたのだった。
それから熱田神宮を出発して、鳴海(愛知県名古屋市)の塩干潟、三河国(愛知県東部)の八橋を通り過ぎ、遠江国の浜名橋(静岡県浜松市)を眺めながら通り過ぎた。
かつては
義脛が気楽な旅をしているのならばそれらを眺めて楽しめただろうが、目的に向かっている最中であるため名所も目に入らなかった。
宇津山(静岡県静岡市)を越えて、駿河国にある浮島が原(静岡県沼津市)に到着した。
・源
源為義の八男。頼朝、義脛の叔父にあたる。
乱暴者であったために九州へ追放されるが、一帯を支配して鎮西八郎と名乗った。
保元の乱では強弓で活躍した。