第55話 義脛、都落ちの事4

文字数 1,917文字

■元暦二年(1185)11月

 これを見た義脛が、「よいか。片岡ならできる」と言うので勇気づけられ、「えい」と声を出して上り始めるが、ずるりと落ちるのを二度三度繰り返す。

 それでも命を捨てる覚悟で上っていった。

[訳者注――今であれば立派なパワハラ案件である]

 二丈(約6メートル)ほど上ってみるとなにやら聞こえてくる。

 物がぶつかる音が船の中に響いており、まるで地震のような音をしている。

 なんだろうと思って聞いていると、浜から吹いてくる風が時雨と共に吹き付けてる音であった。


「聞こえるか、水夫たちよ。後ろから風が来るぞ。波をよく見ろ、風を避けよ」


 片岡が言い終わらぬうちに強風が吹きよせ、帆にびょうびょうと当たったかと思うと、風に押されて船が波を切って進んでいく。


 どこからかわからないが、二カ所でばりばりと物音がしたかと思うと、船の中の人々が一斉にわあと叫んだ。


 帆柱は滑車から二丈ほどのところでぽっきりと折れた。

 折れた柱は海に落ち、船は浮き上がり、急に船脚がのびた。

[訳者注――荒波にもまれる船の様子がありありと描写されている]

 片岡は帆柱からするりと下りると船梁の横木に踏んばり、薙鎌を八本の綱に引っかけて切り落としたので、船は折れた柱を風に吹かれながら、一晩中波に揺られていた。


 しかし運が悪いことは続くもので、それから何日も波風に翻弄され続けた。

 船団は別れ別れになっており、義脛たちの船一つきりであった。

[訳者注――とはいえこの月丸という船には五百人の家来とたくさんの財宝、それに馬も乗っている]

 一週間ほどすると、ようやく落ち着いた夜の風が再び吹き始める。


「この風はどこから吹く風だ」


 そう弁慶が尋ねる。

 すると五十歳ぐらいだろう水夫がこう答えた。


「こんな風は知りません」

[訳者注――一週間もの間、嵐の中を進んでいればどこにいるかわからなくなっても不思議ではない]

 今度は片岡が尋ねる。


「おい、親父、よく考えてからいえ。最初の夜は北風が吹いていたぞ。だが今の風は東南か南から吹いている。このまま風下へ進めば摂津国ではないか」


 それを聞いていた義脛はこう言った。


「お前たちはこのあたりをよく知らない者であろう。水夫たちはよく知っている。帆を張って船を進めよ」


 舳先の弥帆柱を立てて、弥帆を張って船を進ませた。

 夜が明ける頃になると、船は見知らぬ干潟についていた。


「これから潮は満ちるか、引くか」


 義脛が尋ねると、水夫が答えた。


「引き潮でございます」


「それならば潮が満ちるのを待とう」


 船腹を波に叩かせながら夜が明けるのを待った。

 すると陸の方から大鐘の音が聞こえてくる。


「聞き慣れないがこれは鐘の音だろう。鐘が聞こえてくるから浜辺も近いと思われる。誰かいるか。小舟に乗って行って様子を見てこい」


 この義脛の命令を誰が受けるのかと固唾をのんでいる。


「何度であろうとも能力のある者に行って貰うべきか。片岡よ、行って見てくるのだ」

[訳者注――海の上では弁慶よりも役に立つ男。それが片岡である]

 片岡は承り、逆沢瀉(さかおもだか)の腹巻を着て、太刀だけを佩いた。

 もともと熟練の船乗りだったので小舟に乗って、容易く磯に舟を着けて陸に上がる。


 見ると漁師たちが使うのであろう塩焼き小屋が軒を並べている。

 片岡は小屋で話を聞いてみようと近づいていった。


「すまぬ。誰かおらぬか」


 その声に日に焼けた漁師が小屋から出てくる。


「ここはどこの国の何という場所なのか」


 だが片岡には漁師が言っている言葉がよくわからなかった。

 片岡はすぐに船に戻って、このことを義脛に伝えた。


「水夫の中に異国の言葉がわかる者はいるか」


 義脛の問いかけに一人の水夫が進み出る。


「自分は宋との交易をしていました」

[訳者注――平清盛は日宋貿易を盛んに行っている。承安3年(1173年)には摂津国福原にあった大輪田泊に交易船が来ていた。この水夫はそこで働いていたのであろう]

「それでは片岡と一緒に行って、話をしてくるがよい」


 今度は水夫を連れて片岡は陸に上がり、塩焼き小屋にいる漁師と話をすることにした。


「ここはどこなのだ」


明州(めいしゅう)(現在の浙江省寧波市)という場所だそうです」


「それはどこの国なのだ」


「南宋です」

[訳者注――南宋は1127年に建国された中国王朝である。嵐に流され、義脛たちは中国大陸に渡っていたのだった]

 義脛たちがここで聞いた鐘の音に聞き覚えがなかったのは当然のことであった。

 風に吹かれ、波に攫われて、義脛たちは遥か遠く大陸までやってきたのである。


 この後、義脛は配下たちを率いて大陸を統べる大将軍となるのだが、それはまた別の話である。

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