第15話 義脛の最初の臣下、伊勢三郎の事3
文字数 2,053文字
■承安4年(1174)2月
「そもそも都ではなにをなさっている方なのでしょうか。あいにく都に知人はおりませんが何かあった時は訪ねておいでください。それからあと一両日はご逗留いただければと思います。東山道へ行かれるのでしたら碓氷峠まで、東海道でしたら足柄峠までお送りいたします」
都に知り合いもなく、名を問われて答えないのも申し訳ない。それにこの者に二心などないだろう。
そう思った義脛は身分を明かすことにした。
「私は奥州へ下ろうと思っている。平治の乱で敗れた下野守・左馬頭(義朝)の末の子、幼名を牛若という。鞍馬寺で学問をしていたが、今は元服して左馬九郎義脛と名乗っている。奥州の秀衡を頼って下っているところだ。この名はそのうち自然に知られるようになるだろう」
義脛の言葉を聞き終わらないうちに、主人は義脛の前に進み出て袂に縋りつき、はらはらと涙を流した。
「ああ、おいたわしや。私が聞かなければどうして知ることができたでしょう。あなた様が我々にとって代々のご主君であられたとは」
「こう申す私の事を何者だとお思いでしょう。私の父は伊勢国二見(三重県伊勢市)の者でございました。伊勢の
「その後、母はお産をしましたが、この子は胎内に宿りながら父と死に別れた運がない子だからと育児を放棄したのです。母方の伯父がそれを不便に思って、手許に置いて育ててくれました」
「私が十三歳になった時に伯父から元服せよと言われました。その際、『父はどんな人でしたか』と聞いたのですが、母は泣くばかりで何も教えてくれませんでした」
「やがて、『お前の父は伊勢国二見の浦の人だと聞いています。遠国の生まれでしたが、伊勢の度会義連といったそうです。義朝殿に大切にしていただきましたが、思いの外のことがあって、この地で暮らしていました。私がお前を孕んで七カ月の時に亡くなったのです』と教えてくれました」
「今や平家の世となり、源氏は皆滅び果て、たまたま生き残った者も押し込められて散り散りになっておられると聞いておりました。便りも知らず、ましてやお訪ねすることもできませんでした。気がかりではございましたが、今、貴方様にお目にかかれたことを三世の契りであると思います。きっと八幡大菩薩のお引き合わせでありましょう」
そしてお互いのこれまでとこれからのことを語り合った。
その場限りのような縁だったが、この時に初めて義脛に出会った男は二心なく奥州へお供をし、治承四年(1180)に源平の乱が起こってからは、義脛の影のように付き従い、義脛が鎌倉殿(頼朝)と仲違いした時もお供をした。
名を後世に残した伊勢三郎義盛とは、この時の宿の主人であった。
義盛は奥に入って妻と向かい合った。
「どういう人なのかと思っていたが、私にとっては代々お仕えした主であられた。その方が奥州へ下るというのならばお供をしようと思う。お前はここで年が明け、春が来るまで待っていてくれ。もしその頃になっても私が戻らなければ、他の男に嫁ぐがいい。だが他の男に嫁いだとしてもこの義盛のことを忘れないでいてくれ」
それを聞いて女は泣くことしかできなかった。
「ちょっとした旅だっとしても貴方がいないと恋しく思うのです。嫌いになって別れるわけではないのに、どうして貴方の面影を忘れることができるでしょう」
そう嘆いたがどうにもならないことであった。
義盛は剛の者だったので、心を一つに決めてそのまま義盛のお供として奥州へと下っていった。
・伊勢
義脛に付き従った四天王の一人。