第38話 頼朝が義脛と対面の事2

文字数 2,229文字

■治承4年(1180)10月

 頼朝殿は義脛をじっと見つめてから涙を流した。

 義脛も兄の流す涙の色はわからなかったが、一緒に涙を流した。

 お互いに心行くまで泣いた後、頼朝殿は涙をこらえながらこう言った。


「それにしても父上がお亡くなりになって、その後はお主の行方もわからなかったのだ。お前が幼少の頃に見た限りであった。私は池禅尼のとりなしによって伊豆の配所で伊東や北条に警固され、思うようにならない身の上であった」

[訳者注――義脛が生まれたのは平治の乱が起きた年のことである。この戦の結果、頼朝は伊豆へ配流となるが、二人が出会ったとしても本当に生まれたばかりの頃である]
「お主が奥州へ下ったことはかすかに聞いていたのだが、音信さえとらずにいた。しかし兄が生きていることを忘れることなく、何をおいても馳せ参じてくれたこと、言葉にするのが難しいほど嬉しく思う」
[訳者注――義脛が奥州へ下る際に兄である阿野全成に手紙を託している。(阿野禅師に御対面の事)その手紙で義脛のことを知ったのだと考えられる。あるいは、全成は義脛よりも前に頼朝と合流しているのでこの時に義脛の動向を伝えていたとも考えられる]
「さあ、見るがいい。このような大事を今こそと思い立ち、関東八か国の人々をはじめとしてこのように集まってくれた。だが皆他人である。我が身の一大事を相談することができる者はいない」
[訳者注――わざわざ皆がいる前でそういうことを言ってしまうのはどうかとも思うが、あえてそう演じてみせて兄弟の絆の強さを見せつけているのかもしれない]
「皆、平家に従っていた者たちであれば、この頼朝が弱気になったところを見せるわけにはいかない。だから夜通し平家を滅ぼすことのみを考え、平家の討つために京へ上ろうと思ったのだが、我が身は一つしかない。頼朝自身が軍を率いて京へ進めばこの東国が覚束ない。とはいえ代官を立てて向かわせようにも万事任せられる兄弟もいない。仮に他の者を大将にして上らせれば平家に合流して逆に東国を攻めようとするかもしれないと考えればそれもできない」
[訳者注――関東の武士たちの多くは平氏に連なる者たちである。だが平氏でも平家の一門だけが栄華を極め、それ以外の者をないがしろにしていた不満がくすぶっていたために頼朝という旗印を掲げて反乱を起こしたのである]
「今、お前と会って、亡き父が生き返ってくれたかのように思う。我らの祖先、源義家殿は後三年の合戦で桃生(ものう)城を攻めたが、味方の多くが滅ぼされて無勢となり、厨川(くりやがわ)の川端に降りて幣帛を捧げて王城(京)の方角を伏し拝み、
[訳者注――義家は頼朝と義脛の祖先である。義家の活躍については『吉次が奥州の物語を語るの事』に詳しい]

『南無八幡大菩薩、御加護を変えることなく、今度の危機も助けて、本意を遂げさせ給え』


 と祈誓された。

 するとまさに八幡大菩薩の感応があったのだろう。

 都におられた弟の刑部丞(ぎょうぶのじょう)新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ))殿が内裏にお仕えしていたが、奥州が心配だとして職を辞して急ぎ内裏を出て、二百余騎を率いて下って行った。その道中で勢力が加わり、三千余騎になって厨川に馳せ参じた。そして義家殿と力を合わせてついに奥州を打ち従えたのである」

[訳者注――過去の出来事を今に引いて、状況が同じだから今回もきっとうまくいくのだという論法は多く用いられる]

「今、この頼朝がお前を迎えた思いは、その時の義家殿のお心と比べても決して劣らないものである。今日より後は、魚と水のように交わり、力を合わせて祖先の雪辱を雪ぎ、亡き魂の憤りを鎮めようではないか。同じ思いがあるのなら、これほど嬉しいことはない」


 言い終わらないうちに頼朝は涙を流された。

 義脛は返事もできず、ただ涙で濡れた袖を絞るばかりであった。


 これを見ていた大名小名たちは、二人の心の内を思い、皆が袖を濡らした。

[訳者注――頼朝と義脛が役割を演じることで、周囲の者は感じ入るという構図になっている]

 しばらくしてから、義脛がこう申し上げた。


「おっしゃられた通り、わたしが幼少の頃にお目にかかったことがあるのでしょう。兄上が配所へお下りになってからはこの義脛は山科におりました。七歳の時に鞍馬寺へ入り、十六まで学問をして、その後は京におりました」

[訳者注――生まれたばかりだった義脛は頼朝のことを覚えていないのは当然である]
「しかし密かに平家がわたしを亡き者にしようとしている噂を聞き、奥州へ下りました。そこで秀衡を頼りにしました。この度、兄上が謀反を起こしたと聞き、取るものも取りあえず馳せ参じた次第です」
[訳者注――最初に奥州へ下ったのは『遮那王殿が鞍馬寺を出られるの事』にもある通り、平家は義脛を亡き者にしようとはしていなかった。義脛が狙われるようになったのは、『弁慶、義脛と君臣の契りを交わすの事3』にもあるように弁慶を家来にしてからのことである]

「今、兄上にお会いして、亡き父上にお会いしたかのような気持がします。この命を兄上に捧げます。我が身を兄上に捧げた以上、どのような命令にも従いましょう」


 そう申し終わる前に、また涙を流す様子が哀れであった。


 こうして頼朝は義脛を大将軍として京に上らせた。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

平安時代後期の武将。源義家の弟。

近江国の新羅明神で元服したことから、新羅三郎と称した。

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