第6話 吉次が奥州の物語を語るの事

文字数 4,285文字

■承安4年(1174)2月

 こうして年も改まり、遮那王は十六歳になった。

 正月の末を過ぎて二月の初めのこと。相変わらず遮那王は多聞堂の御前で平家打倒を一心に祈念していた。


 その頃、京の三条に吉次信高(金売(かねうり)吉次(きちじ))という名の大金持ちが暮らしていた。

 吉次は毎年奥州(東北地方)に下る砂金を扱う商人だったが、鞍馬寺の信者でもあった。

 そのため吉次もまた多聞堂にお参りをしてお祈りをしていた。


 同じようにお祈りをするまだ幼い遮那王を見た吉次は「とても美しいお子だなあ。いったいどこの君達(きんだち)(上流貴族の子)であろうか」と思った。

[訳者注――義脛は一見しただけで思わず注目してしまうほどの美童だったのがわかる]

 そもそもしかるべき身分の高いお方であれば大勢の僧が付き従っているはずなのに、何度見かけてもお一人でおられるのは不思議なことだ。

 そういえば、この鞍馬山には亡き源義朝殿の若君がいると噂に聞いている。


 噂は本当だろうか。たしか奥州の藤原秀衡(ひでひら)殿もこのように言っておられた。


『鞍馬寺という山寺に頼朝殿の若君がおられるのだが、奥州へお越しいただきたいものだ。なにしろ太宰大弐(だざいだいに)(大宰府の次官)の位にある平清盛が六十六カ国を従えようと広言している。源氏の若君が一人でも来てくれたのなら磐井郡(岩手県)に都を建て、二人の息子(藤原国衡(くにひら)泰衡(やすひら)のこと)に出羽国(山形県と秋田県)と陸奥国(福島県、宮城県、岩手県、青森県)を治めさせよう。そして私が生きているうちは大炊介(おおいのすけ)(天皇の食事を用意する官職。つまり後ろ盾になるということ)となって源氏を主君として大切にお世話し、空を見上げない鷲のように何者も恐れないようにして差し上げたいものだ』

[訳者注――六十六カ国は畿内と七道を合わせた国のことをいい、日本全国という意味でも使われる。実際、この頃の平家は30国の知行国を有していた]

 この若君に秀衡殿の言葉を伝え、上手いこと奥州まで連れていき、秀衡殿に会わせたら褒美の品を頂けるのではないだろうか。

 そう考えた吉次は遮那王に畏まりつつ声をかけた。

[訳者注――この時点で吉次には吉次なりの腹積もりがあったのがわかる]

「貴方様はどちらの君達でありましょうか。私は京の者でございます。金を扱う商人として毎年のように奥州に下って商売をしているのですが、もしや奥州にお知り合いの方がいらっしゃいませんか」


「いや、京の外れに暮らす者だ」


 遮那王はそれ以上、何も言わなかった。

[訳者注――聖門坊の時と同じく、義脛が相手を警戒しているのがわかる]

 しかし遮那王はこの者が噂に聞く黄金商人の吉次なのだと思い至り、奥州のことに詳しいはずだから聞いてみようと考え直した。


「陸奥国というところはどれほどの広さがあるのだろうか」


「非常に大きな国でございます。常陸国(茨城県)と陸奥国の境には菊田の関がありまして、出羽国と陸奥国の境に伊奈の関がございます。この二つの関の間にある陸奥国には五十四の郡がございます」


「その中に源平の間で戦が起きた場合に役立つ者はどれほどいると考える」


 吉次は陸奥国のことには詳しいので淀みなく答えた。


「かつて出羽と陸奥の両国を支配していたのは安倍(あべの)忠良(ただよし)と申す者でした。彼には子が一人おり、頼時(よりとき)と申します」

[訳者注――ここから語られるのは前九年の役と後三年の役の話であるが、史実とはかなり異なっている]
「頼時にはたくさんの子供がいました。嫡子は貞任(さだとう)、二男は宗任(むねとう)、他に家任、盛任、重任、そして末子に境冠者(さかいのかんじゃ)とも呼ばれる良増(りょうぞう)という者がいました。この良増は霧を発生させて霞を立て、敵がやってくると水の底や海の中で何日も過ごすような怪しげな力を持っていたそうです」
[訳者注――怪しげな力を使うという点で鞍馬山の天狗と被る]
「またこの兄弟の身長は全員が唐人よりも高かったといいます。貞任の背丈は九尺五寸(約285センチ)、宗任の背丈は八尺五寸(約255センチ)、残りの兄弟も八尺(約240センチ)に満たない者はいません。中でも境冠者は一丈三寸(約309センチ)もありました」
[訳者注――話を盛るにしても限度があると言いたい……のだが、いずれも特異な能力を有していたという大袈裟な表現であろう。そうした者を倒した者はより素晴らしいとするわけである]

「安倍頼時の時代までは宣旨(せんじ)(天皇の命令)や院宣(いんぜん)(上皇の命令)が下されると恐れをなして、毎年のように上洛をして許しを得ていました。しかし頼時が死去した後は宣旨に背くようになったのです」


「院宣に対して北陸道の七か国の分の兵糧を賜るのでしたら上洛しますと答えました。しかしそのようなことは叶わぬ願いでしたので、公卿が評議して『これは天命に背く行為である。源平の大将を陸奥に下して追討せよ』と申されました」


「そして源頼義(よりよし)が勅宣を承り、十六万騎の軍を率いて安倍追討のために陸奥に下りました。駿河国(静岡県)の住人であった高橋大蔵大夫に先陣を任せ、下野国(栃木県)芋柄という所に着きました」

[訳者注――史実で頼義が奥州へ赴任したのは永承六年(1051)のこと]

「安倍貞任はこれを聞いて厨川城(岩手県盛岡市にあった城)を出て阿津賀志山(あつかしやま)(福島県伊達郡)を後ろにして、安達郡(福島県二本松市)に木戸を立て、行方原に向かい、そこで源氏を待ち構えました」


「高橋大蔵大夫は大将として五百騎余りの軍を率い、白河の関(福島県白河市)を越えて行方原に陣を構える貞任を攻めました。貞任はその日の戦に負けて浅香沼(福島県郡山市日和田にある山の麓)に引き退きました。そして伊達郡の阿津賀志山に立てこもったのです」


「源氏は信夫里の摺上川(福島県福島市を流れる川)の端にある早代という場所に陣取り、七年もの間、昼夜を問わずに戦いましたが、源氏の十一万騎は皆討たれてしまいました」

[訳者注――およそ7割が討ち取られた計算になるが、史実では天喜五年(1057)に起きた黄海の戦いで頼義が率いた1800の軍が貞任の軍に大敗し、数百の戦死者を出している]

「これは敵わないと判断した源頼義は京に上って内裏に参内し、『私では敵いそうにありません』と申し出たのです。『お前で敵わないというのならば代わりの者でよいからすぐに安倍貞任を追討するのだ』と重ねて宣旨が下されました」


「頼義は急いで六条堀川の宿所に帰り、十三歳になる息子を内裏に参内させました。『お前名は何と言うのだ』とたずねられたので、『辰の年の辰の日の辰の時に生まれました』と言ってから、『名を源太と申します』と申しました」

[訳者注――史実では頼義の息子である義家も参陣しており、黄海の戦いで戦線を離脱している]
「無官の者に大将を任せる前例はないので元服させよと朝廷は命じられました。そして後藤内則明を供に付けて石清水八幡宮で元服させ、八幡太郎義家(源義家(よしいえ))と名乗りました。時の帝より賜った鎧は源太産衣(げんたがうぶきぬ)と呼ばれております」
[訳者注――史実では7歳の時に義家は元服している]
[訳者注――源太産衣は源氏八領(げんじはちりょう)という清和源氏に代々伝えられてきたとされる八つの鎧の一つ。他に「八龍」「楯無」「薄金」「膝丸」「沢瀉」「月数」「日数」がある。その中でも源太産衣は源氏の嫡男が鎧着初(よろいきぞめ)のときに着用する鎧だとされ、頼朝もこの鎧を着ている]

「そして秩父十郎武綱(平武綱)が先陣を賜って、奥州へ下りました。武綱は阿津賀志山の城を攻めましたが、この戦いでも源氏は負けてしまいました。これは戦況が悪いと急いで都へ早馬を出してこのことをお伝えしました」


「これは年号が悪いせいではないかとなり、康平元年(1058)に改められました。それが功を奏したのか同じ年の四月二十一日に阿津賀志山の城を攻め落とすことができました」

[訳者注――この時代は現代よりも頻繁に改元が行われた。吉事があれば改元、凶事があれば改元している]

「安倍貞任は伊奈の関を越えて、最上郡(山形県最上郡)にこもりました。源氏が続いて攻めると、雄勝の山(宮城県石巻市)を越えて、仙北の金沢城(秋田県仙北郡)に引きこもりました」


「そこで足かけ二年も戦いましたが、鎌倉権五郎景政(鎌倉景正)、三浦平大夫為継(三浦為通)、大蔵大夫光任(大宅光任)といった者たちが命を捨てて攻めたので、金沢城も攻め落とされました」


「貞任は白木山(秋田県横手市)を越えて、衣川城(岩手県奥州市)にこもりました。三浦為継と鎌倉景政は続けて攻めました」


「康平三年(1060)六月二十一日に貞任は大怪我をしたため梔子色の衣を着て、磐手(岩手)の野に倒れました。貞任の弟である宗任は降参をしました。境冠者(良増)は、後藤内則明が生け捕りにして、その後に斬られました」

[訳者注――史実の安倍氏は康平五年(1062)に滅亡し、前九年の役は終結した]
「源義家は急ぎ都に上りました。内裏に参り、末代までの名声を上げました」
[訳者注――前九年の役における頼義と義家の活躍は、河内源氏が武家の中でも最高の格式を持つ家である根拠とされた]

「その時、義家に従って奥州へ下っていた光少将(藤原重家)十一代の子孫で淡海公(藤原不比等)の末裔である藤原清衡(藤原秀衡の祖父)という者が国の警護のために留められました。清衡は亘理郡(宮城県亘理郡)で暮らしていたので亘理清衡と呼ばれて、出羽と陸奥の両国を治めたのです」


「十四道には弓取り(武士)が五十万騎おりますが、秀衡は家来を十八万騎従えております。もし源平の戦が起これば、これらの者が味方につくでしょう」と申しました。

[訳者注――俗に奥州十八万騎(十七万騎とも)と言われるが、実際のところはそこまで多くはなかったと思われる]

金売(かねうり)吉次(きちじ)

平安時代末期の伝説的な商人。

奥州で産出される金を商っていたとされる。義脛が奥州藤原氏を頼る時に手助けをした。


・藤原秀衡(ひでひら)

奥州藤原氏の最盛期を築いた第三代当主。


・源頼義(よりよし)

平安時代中期の武士で河内源氏の二代目棟梁。


・源義家(よしいえ)

源頼義の長男。

八幡太郎という通称でも知られ、頼朝や義脛の祖先にあたる。(義家→義親→為義→義朝→義脛)

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