第26話 書写山が炎上の事1
文字数 2,459文字
弁慶は阿波国から
このまま帰ろうかとも思ったが、どうせなら
この夏安居というのは四月から六月までの間、諸国から修行者がたくさん集まって寺に籠り、雑念に囚われることなく一心に修行に励むことである。
たくさんの僧が学頭の僧坊に集まるが、修行者たちは修行道場に入るのが常であった。
夏篭りをする僧は
弁慶は勝手に押しかけ、敷居の上に憎々し気な態度で学頭の座敷をしばらく睨んでいた。
これを見た僧たちはたずねた。
「一昨日昨日は座敷にいなかった法師のようだが、どこから来た修行者なのか」
「比叡山の者だ」
と、弁慶は答えた。
「比叡山のどこから来たのだ」
「桜本だ」
「すると桜本僧正の弟子か」
「そうだ」
「俗姓はなんという」
弁慶はこれに仰々しい声で答えた。
「天児屋根命の末裔、中関白・藤原
弁慶は夏安居の間は一心に勤行に励み、何事も怠らずに修行した。
「初めの頃の顔つきと今とはまったく違うようだ。人々にも慣れたように見える。穏やかな者だったのか」
僧たちはそのように弁慶を褒めた。
こうして夏安居が過ぎ、秋の初めになったら、また諸国を回る修行に出ようと弁慶は考えていた。
しかし名残惜しくて出ていくことができず、留まり続けていた。
とはいえ、ずっとそうしているわけにもいかないので、七月下旬に学頭に別れを告げようと訪ねて行った。
それを見た弁慶はこれでは挨拶に行っても仕方がないと思ってその場を出ていった。
新しい障子を一間立てた部屋があったので、そこで昼寝でもしようとしばらく横になることにした。
その頃、書写山には相手が誰であっても喧嘩を吹っかける者がいた。
名を
「俺はこれまで多くの修行者を見てきたが、こいつほど広言する憎らしい者はいなかった。こいつに恥をかかせて寺を追い出してやろう」
弁慶が寝ているのを見た戒円はそう思い、硯に墨をすって武蔵坊の顔に文字を二行書いた。
片方には「
弁慶を平足駄にしてやったぞ。
その面を踏んでやったが、奴は起き上がりもしなかった。
そう歌を書き付けて、小法師たちを二、三十人集め、板壁を叩いて一斉に笑った。
寝ていた武蔵坊は具合の悪い所で寝たものだと思い、衣の袂を整えてから僧たちの前に姿を見せた。
僧たちは弁慶を見ると互いに目配せをし、鼻先で合図をし、顔を見合わせて笑っている。
僧たちは堪えきれずに笑っていたが、弁慶は何がおかしいのかわからなかった。
人が笑っているのに笑わないのは偏屈者に見られると思い、皆と同じように笑顔を作って笑うことにした。
しかしながら、座敷の僧たちの様子を見て何か隠しているようだと考えた弁慶は、きっと自分のことを笑っているのだと思った。
そこで拳を握り、膝立ちになってこう叱りつけた。
「何がおかしい」
「いかんいかん。この者が随分と気分を害しているようだ。もしかすると寺の一大事ともなるかも知れん」
そう考えた学頭は弁慶にこう言った。
「どうということでもないのだ。お主を笑ったのではない。他のことで笑ったのだ。とるに足らないことだ」
それを聞いた弁慶は座敷を立ち、但馬の阿闍梨という者の僧坊に向かった。
そこまでは一町(約100メートル)ほどあり、そこも修行者の寄合所であった。
その道中、行き交う者たちは皆、弁慶を見て笑っていた。
弁慶はおかしいと思い、水に自分の姿を写して見ると顔に文字が書いてある。
人々が弁慶を見て笑った理由を知り、これほどの恥をかいてはもう一時もこの場には居られない。
どこでもいいからすぐにでも出ていこうと思ったが、また思い直した。
自分一人のせいで比叡山の名を辱めることはいかにも心苦しい。
たくさんの人に散々悪口を言ってやろう、言い返す者は諭し、恥をそそいでから出ていこうと思った。
そして人のいる僧坊をたずねまわり、散々に悪口を言って回った。