第42話 土佐坊、義脛の討手として京に上る事1
文字数 2,047文字
■文治元年(1185)10月
鎌倉殿は、二階堂(神奈川県鎌倉市)の土佐坊昌俊を呼べと命じた。
頼朝は四間所におられ、土佐坊を待っていた。
梶原景時が「土佐坊が参りました」と申し上げると、鎌倉殿は「ここへ通せ」と申された。
鎌倉殿は景時の息子である梶原源太景季を呼んで、「土佐坊に酒を勧めよ」と命じたので、景季は丁寧に土佐坊をもてなした。
[訳者注――梶原景季は景時の子で、父親と同じく武勇と教養を併せ持つ武士で頼朝に仕えた。宇治川の戦いでは佐々木高綱と先陣争いをしたことでも有名]
「和田義盛と畠山重忠に命じたが、二人とも断ってきたのでお主に頼むことにした」
[訳者注――和田義盛は頼朝に仕えた有力武士の一人。鎌倉幕府が成立した時には侍所別当に任じられた]
[訳者注――畠山重忠も頼朝に仕えた有力武士の一人。武勇の誉れが高く、清廉潔白な人柄から坂東武者の鑑と称された]
[訳者注――二人とも頼朝の依頼を断っているが、共に平家と戦った義盛と重忠からすれば、義脛は戦の天才であり、彼がいなければ早期に平家打倒はかなわなかったことを理解していたのも関係しているだろう]
「義脛が都におり、後白河院にいたく気に入られておる。このままでは世を乱すことになるだろう。河越重頼にも討てと命じたのだが、舅であるからと断られてしまった」
[訳者注――頼朝の命令で娘を義脛に嫁がせた河越にすれば当然の返答であろう]
「そのため土佐坊の他に頼る者がおらぬ。お主は都について詳しかったな。上京して義脛を討ち取って参れ。その勲功として安房と上総を与えよう」
[訳者注――ここでも、『お前の他は~』と口にしている頼朝には人たらしの才能もあったのだと考えられる]
[訳者注――土佐坊はもともと大和国にある興福寺の僧侶をしていた]
「かしこまって承ります。しかし、御一門を滅ぼせと仰られるのは悲しいことではございます」
そう土佐坊は申し上げた。
すると鎌倉殿は顔色を大きく変えて、機嫌を悪くしたように見える。
土佐坊は慌てて口をつぐんだ。
「さては義脛と何か約束したことでもあるのか」
[訳者注――恐らく、土佐坊の心情を理解した上で頼朝はこのような演技をしたのだと思われる。こうすれば土佐坊が要請を断ることが難しくなるのを頼朝が理解していないはずがない]
それを聞いた土佐坊はこう思った。
(よくよく考えてみれば、親の首を斬るのも主君の命で行うことがあるのだ。頼朝殿と義脛殿との戦になれば、侍たちも己の命をかけて戦うしかないだろう)
[訳者注――頼朝の父・義朝は保元の乱で敵対した父・為義(頼朝や義脛の祖父)を処刑している。この当時、敵対者の命、まして親の命をとるまでするのは稀な事であった。事実、頼朝は平清盛に命を助けられている]
「もしもそのような約束があったとしても従うわけではございません。恐れ多いことでございますので、先ほどのはただのあいさつ程度のことでございます」
「だからこそよ。土佐坊の他に誰を向かわせようかと思ったわしの考えに間違いはなかった。景季よ、これへ参れ」
[訳者注――結局、頼朝の思い通りに事が進んでいる]
鎌倉殿に呼ばれて景季は御前に畏まった。
「用意したものを持って参れ」
そう命じられると、景季は納戸の方から刃の長さ一尺二寸(約36センチ)の蛭巻で柄を白く飾り、細貝を目貫を付けた手鉾を持ってきた。
「土佐坊の膝の上に置け。これは大和鍛冶の千手院に作らせて秘蔵していたのだが、この頼朝の敵を討つときは柄の長いものがよいであろう。和泉判官(山木兼隆)を討ち取った時に、容易く首をとることができたのだ。これを持って都へ上り、義脛の首を刺し貫いてくるのだ」
[訳者注――実のところ頼朝は戦に強くない。頼朝自らが戦に赴いて勝ったのは山木を討ったこの戦いぐらいなものである]
そのようにおっしゃられたが、それは情け容赦のないお言葉であった。
頼朝は景時を呼んでこう命じた。
「安房、上総の者たちに土佐坊の供をさせよ」
土佐坊はこれを聞いて、数が多くては上手くいくまい、そのような多勢で押し寄せて武力による戦は避けるべきだ。隙を狙って夜討ちにしようと思った。
「大勢は必要ありませぬ。わたしの手勢だけで上ります」
「手勢はどれぐらいいるのだ」
「百人ほどでございます」
「それならば不足はあるまい」
土佐坊はこうも思っていた。
大勢を引き連れて上洛すれば、もし見事に義脛を討ち果たした時に勲功を配分しなければならないのが面白くない。
配分しようとすれば、安房、上総は畑は多いが田は少ない。取り分が少なくなっては物足りない。
そんなことを案じながら酒を飲んでいた。
土佐坊は引出物を賜って二階堂に帰った。
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