第35話 頼朝謀反により義脛が奥州を出る事

文字数 1,479文字

■治承4年(1180)10月

 そうしているうちに頼朝が謀反を起こしたという話が奥州にも届いた。

[訳者注――頼朝が蜂起したのは8月だが、奥州へその情報が伝わるまでに二ケ月かかっている]

 弟である九郎義脛は本吉(もとよし)の冠者こと藤原泰衡(やすひら)を呼び、父の秀衡(ひでひら)にこう伝えさせた。


「頼朝殿が謀反を起こし、関東八か国を打ち従えて平家を攻め滅ぼさんと都へ上ると聞いた。この義脛はここでこうしていることを心苦しく思っている。兄上を急ぎ追い、一方の大将にでもなりたいと思う」


「今日まで貴方が立ち上がらなかったことのほうが道理にあわなかったのです」


 義脛の話を聞いた秀衡は三男の泉冠者(いずみのかじゃ)こと忠衡(ただひら)を呼び寄せてこう申し伝えた。


「関東で事が起きた。源氏がいよいよ打って出たのだ。陸奥と出羽の兵を集めよ」


「千騎でも万騎でも揃えて連れていきたいが、遅くなることはよくあるまい」


 そう言って義脛はすぐに出発することにした。

[訳者注――文字通り、兵は拙速を尊ぶである]

 秀衡はとりあえずではあるが、まずは三百余騎をお付けした。


 義脛の家来には西塔(さいとう)武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)、また園城寺(おんじょうじ)の法師で義脛を訪ねてきた常陸坊(ひたちぼう)伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)佐藤三郎継信(さとうさぶろうつぎのぶ)とその弟の四郎忠信(しろうただのぶ)らがいた。

[訳者注――義脛の四天王と呼ばれるが所説ある。一般には佐藤継信、佐藤忠信、鎌田盛政、鎌田光政だが、武蔵坊弁慶、伊勢義盛、常陸坊海尊、亀井重清、片岡経春、駿河次郎らがいる]

 これらの家来を先頭として三百余騎は馬の腹筋が切れようが、脛が砕けようが先を急ぎ、もみ合うようにして南へ馳せ向かう。


 阿津賀志(あつかし)中山(なかやま)を走り越え、安達(あだち)の大城を通り、行方(ゆきがた)の原、白河の関を過ぎたところで義脛が振り返る。

[訳者注――『義脛の最初の臣下、伊勢三郎の事4』で通過したルートを逆にたどっている]

「軍勢がまばらになっているぞ」


 義脛の問いかけに伊勢三郎が答えた。


「ある者は馬の爪が欠けたために、またある者は脛を砕いたりして、少々途中で置いて行かれたのです。ここまでついてこられたのは百五十騎でございます」


「たとえ百騎が十騎になったとしても駆け続けるのだ。者ども、後ろを振り返るな」


 そして足音を轟かせて駆けていった。


 喜連(きづれ)川を過ぎ、下橋(さげはし)の宿について馬を休ませてから、鬼怒(きぬ)川を渡って宇都宮の大明神(二荒山神社)を伏し拝んだ。

 室矢島(むろのやしま)を見て、武蔵国足立郡の川口に到着した。

[訳者注――ここも『義脛の最初の臣下、伊勢三郎の事4』で通過している]
 この時、義脛の軍勢は八十五騎になっていた。
[訳者注――率いた軍勢が1/3以下になるほど急いでいたのがわかる]

 板橋に馳せついて、


「兵衛佐殿はどこか」


 と問いかける。


「一昨日、ここをお立ちになりました」


 武蔵国の国府(こう)六所(りくしょ)の町について、


「佐殿はどこか」


 と再び問う。


「一昨日お通りになり、相模国の平塚へ向かわれました」


 平塚について三度尋ねると、


「すでに足柄峠を越えておられます」


 義脛は大変頼りない心持ちだったが、馬をさらに走らせ、足柄山を打ち越え、伊豆国の国府に着いた。


 四度尋ねると、


「佐殿は昨日、ここを出発され、今頃は駿河国の千本松原から浮島が原におられます」


 それならばもうほど近いとますます馬の足を早めて追いかけた。

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