第39話 義脛平家の討手に上り給ふ事1
文字数 1,824文字
■元暦二年(1185)3月
義脛は寿永三年に上洛して、平家を京から追い落とし、一ノ谷、
平家の大将軍である前内大臣・平
そして後白河院と後鳥羽天皇にお目にかかって後、さる元暦元年(1184)に検非違使の五位の判官になった。
■元暦二年(1185)5月
義脛が宗盛親子を引き連れて、腰越(神奈川県鎌倉市)に着いた時に梶原景時が頼朝にこう言った。
「義脛殿が前大臣殿父子を連れて腰越にお着きになりました。頼朝殿はいかがなさいますか」
「義脛殿は野心を持っているようでございます。その理由ですが、一ノ谷の合戦で庄三郎 家長 が、本三位 の中将を生け捕り、三河殿の手に渡りましたが、義脛殿はこのことをたいそうお怒りになりました」
「『三河殿には一応の指揮をとっていただいただけのこと。中将はこの義脛に渡すべきところではないか。これは越権行為に他ならぬ』そうおっしゃって家長を討とうとしましたので、この景時が取り計らって土肥 実平 の手に本三位の中将を引き渡したことで、ようやく義脛殿の怒りも鎮まりました」
「その上、『平家を討ちとったならば、逢坂の関より西は義脛が賜るべきである。天に二つの日はなく、地に二人の王なしと言うが、これからは二人の将軍がいることになろう』と申しております」
義脛はまさに武功をあげる達人であった。
今まで一度も経験したことのない船戦でさえ、義脛は風波の危険を恐れず、舟べりを鳥のように走り回った。
一ノ谷の合戦では、城は難攻不落であり、平家は十万騎余りいた。対する源氏方は六万五千騎余りでしかなかった。
城を守る側が少なく、寄せ手が多勢であればこそ城攻めでは勝負が決まるのだが、一ノ谷の合戦では城を守る側が多勢で地の利があり、寄せ手は数が少なく、地理に不案内の者ばかりであった。
だから容易く城が落ちることはないと思われていたが、鵯鳥越 という鳥や獣でさえも通るのが難しい険しい道を少人数で越え、平家を遂に追い落としたのは凡人の所業ではなかった。
屋島の戦でも大風が吹いて波は激しく、船を出せるような状態ではなかったが、わずか船五艘で渡ってしまった。
そしてたった五十騎余りで、躊躇することなく屋島の城に押し寄せて、平家数万騎を追い落としてしまった。
壇ノ浦における最後の戦まで弱気を見せることはなかった。
大陸にも本朝にもこれ程の大将軍がいただろうかと、東国、西国の兵たちは皆一同に義脛を崇めた。