第40話 義脛平家の討手に上り給ふ事2
文字数 2,505文字
■元暦二年(1185)5月
「義脛殿は野心を隠し持っているので、誰にでも情けをかけ、兵まで大事にしておられます。だから兵たちは
『ああ、この方こそ本当の武士の主である。義脛殿のためにこの命を差し出すことに塵ほども惜しくはない』
と言って、心から慕っているのです」
「今の世は頼朝殿の果報があってのことなので、何もないとは思います。ですが子孫の世にはどうなるかわかりませぬ。またたとえ今の世であろうとも義脛殿を鎌倉に迎え入れるのはどうかと思います」
頼朝はこれを聞いて、こう言った。
「梶原が申すことであるから偽りなどないであろう。だが一方の意見だけを聞いて判断をするのは政道にもとるところである。義脛が鎌倉に着いたのであれば、明日ここで梶原に質疑応答させよ」
大名小名はこれを聞いて、
「今の仰せを聞いたか。義脛殿は過ちを犯したわけではあるまい。きっと助かるのではないか。そういえば景時が
と言い合っていた。
頼朝から義脛に会うよう命じられた梶原景時は
義脛は
「先祖の恥を雪ぎ、亡き魂の憤りを鎮めることが本意であるが、頼朝殿の恩に報いるためにたいそう悩んだあげく大臣殿を鎌倉まで送ってきたのだ。だから恩賞を賜るのではないかと思っていたのに対面も叶わぬとは。今までの忠義は何だったのか。ああ、これは梶原景時が讒言を申したに違いない。西国で切り捨てるべき奴を、かわいそうに思って助け置いたために、今は敵となってしまった」
と言って後悔したが、仕方のないことであった。
鎌倉では頼朝が
「どのような事であろうと頼朝殿の仰せに背くものではございませんが、ご存知と思われますが我が娘は義脛殿の妻でございます。我が身にとってもつらいことでございます。どうか他人に命じられますよう」
頼朝は舅として当然のことだと思い、重ねて命じることはしなかった。
次に
「河越重頼に命じたのだが、親しい間柄だと言って叶わないことと申した。だからといって世を乱そうとしておる義脛を、そのままにしておくこともできぬ。お主が向かえ。よいことがが待っておるぞ。もし義脛を討ち取ったならば伊豆と駿河の両国を与えよう」
畠山重忠は何事にも遠慮のない者なので、はっきりと言った。
「仰せには背き難く存じますが、八幡大菩薩の誓いにも、他人の国より我が国、他人よりも我が人を守るとあります。他人と親しい人を比べれば言うまでもないことでございます。梶原景時という者は一時的な便宜によって召し使う者でございます。長年忠義をいたし、兄弟の仲であります義脛殿を、梶原の讒言によりたとえ恨みがあるといっても九州をお授けになるのが適当かと。鎌倉でお会いになる際にはわたし重忠に賜ろうとおっしゃった伊豆と駿河の両国を褒美の引出物として義脛殿にお与えになり、六波羅守護に任じて、後ろ盾として守らせたならこれ以上に安心なことはございません」
遠慮することなく言い捨てて席を立った。
頼朝は道理だと思って、その後は義脛の討伐を命じることはなかった。
腰越の義脛はこれを聞いて、野心がないことを数通の起請文に書いて鎌倉に届けさせたが、なおも承諾がなかったので重ねて
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平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族。
鎌倉に下って頼朝の側近となり、鎌倉幕府創設に貢献した。