第30話 弁慶、義脛と君臣の契りを交わすの事1

文字数 1,261文字

 六月十八日になる頃、清水寺の観音に様々な身分の者たちが御堂に篭って祈祷をしていた。
[訳者注――毎月十八日は観音の縁日であるが、六月十八日は特に功徳が大きいとされていた]

 弁慶は昨夜の男が清水寺にいるだろうから、自分も参って会ってやろうと考えて参拝することにした。


 最初は清水寺の大門のところに立って待っていたが、男の姿は見えなかった。

 仕方がないので今日は帰ろうと思っていると、それがいつものことなのだろうか。夜更けの清水坂で例の笛を吹いているのが聞こえてきた。

[訳者注――義脛は鞍馬寺を出奔する時にも笛を吹いている]

「なんともいい笛の音色である。奴が来るのを待つとしよう。清水寺の観音は坂上田村麻呂が建立し奉った御仏である。私は三十三体に姿を変じて人々の願いを叶えたい。そうでなければ祇園精舎の雲に乗って永遠に真の悟りが得られることはないと誓い、私の地に入ってきた者には福徳を授けようと誓い給うた御仏である。しかしながらこの弁慶は福徳など欲してはいない。ただあの男の持っている太刀を手に入れさせ給え」


 弁慶はそう祈願し、清水寺の門前で待ち構えていた。


 義脛はなんとなく嫌な予感がしたので、清水坂を見上げてみた。

 するとあの法師が昨日とは違って腹巻を着こみ、太刀を脇ばさみ、長刀を杖にして突いて持っている。


 それを見て、曲者が、懲りもせず今夜もここにいるのかと思った。

 そして少しも怯まずに門を目指して坂を上っていくと弁慶が声をかける。


「今、清水寺を参拝しているお人は、昨日の夜、天神で会った御方かな」

[訳者注――お互いにわかっているのにこういう掛け合いをすることで物語が盛り上がるのである]

「そんなこともあったかな」


 と義脛は応じる。


「それではお主が持っている太刀をこちらにいただけまいか」


「何度も言うが、やらんぞ。欲しければ実力で奪ってみせよ」


「いつまでその強がりが続くかな」


 弁慶は長刀を振りまわし、真っ直ぐに坂を下りながら叫びつつ襲い掛かってくる。


 義脛も太刀を抜き、打ち合わせて弁慶の大長刀を受け流した。

 義脛の技量に弁慶はヒヤリと胆を冷やす。

 ともかく、手に負えない相手だと思った。

[訳者注――達人は数合打ち合わせるだけで相手の力量を見極められるというアレであろう]

「一晩中、こうして遊んでやりたいが、観音様に宿願をお祈りせねばならんのだ」


 そう言って、義脛は弁慶を置いて行ってしまった。


「手に入ったものを失ったかのようだ」


 そう弁慶はつぶやいた。


 義脛は、あの者が何者なのかは知らないが、勇猛なのは間違いないと思った。

[訳者注――義脛もまた弁慶の力量を理解している]

 ああ、明け方まで待ってくれていればよいのだか。

 奴が持っている太刀や長刀を打ち落とし、わずかに傷を負わせて生け捕りにしてやる。

 こうして一人で歩くのはつまらないから代々の家来として召し抱えてやろう。

[訳者注――とはいえ、自分の方が上であると確信しているのだが]
 弁慶はそんな義脛の企みも知らず、太刀に目をつけながら義脛の後についていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

訳者注

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色