第20話 義脛、鬼一法眼の所へ行った事3

文字数 2,974文字

■承安5年(1175)12月

 六韜を読み終えると、義脛は再び法眼の近くに姿を見せるようになった。

[訳者注――当初の目的を達したのだからさっさと屋敷を後にすればいいのにと言ってはいけない]

 ある時、法眼にこのような報告をする者がいた。


「姫君のところにおられるお方は源義朝の若君でございます」


 その話を聞いたのは法眼だけではなかった。

 北白川(京都市左京区)で暮らしていた湛海(たんかい)である。

 腕自慢の剛の者であり、法眼の弟子でもあった。


 しかもこの者は法眼の末娘を娶って法眼の秘蔵する宝を独り占めしようと考えていたのである。

[訳者注――末娘だけは自分の手元で大切に育てていた法眼にとって、湛海は厄介者だったのかもしれない]

「まさかとは思いますが、お師匠はあの者の正体をご存じだったのではありませんか」


「何故そう思う」


「普段のお師匠であれば、無礼な口を利いた者を許すはずがないからです。それは我々のような弟子やあなた様の家族だけではなく、市中の者でも知っていることです」

[訳者注――鬼一法眼の傲慢な振舞いは多くの人に知られていたのであろう]

 湛海は法眼に詰め寄るようにしてこう言った。


「今の世に源氏の出る幕などありません。すべてを六波羅へ伝えるのがよいでしょう。いや、あの者が生きていれば平家にとって敵になるのは必定。斬ってしまうべきです」

[訳者注――六波羅はこの当時、平家の者が暮らしていた場所である。『常盤、都落ちの事』で常盤が連れていかれたのも六波羅であった]

 湛海にしてみれば、義脛を斬って平家に見せることで勲功に預かり、より強い関係が持てるという考えもあった。


「あなたはもともと源氏に仕えておられましたが、今では平家に連なる者。よもや反対はされないでしょう」


「ではなんとする」


「知れたことです。夕方になりましたら五条の天神へ呼び出すのです。そうして自分が奴の首を斬ります」

[訳者注――湛海は法眼のもとで修業を積んでいたために武術に自信を持っていたと思われる]

「それができたのならば、お前がここ五、六年らい望んでいた六韜を読ませてやる」


「承知いたしました。吉報をお待ちください。ところで、あの者の実力はどの程度なのでしょうか」


「ただの若造よ。年齢は十七、八といったところか。立派な腹巻と黄金作りの太刀を身に着けておる。決して油断をするな」

[訳者注――義脛が身に着けている腹巻と太刀は鞍馬山で大天狗からもらったものである]

「その程度の若造が分に過ぎた太刀を持っていようと後れを取ることはありません。一太刀でも余るでしょう」


 そう自信満々に言って法眼の部屋から出ていった。



 法眼は義脛のところへ使いをやって、面会したいと伝えた。

 何かたくらみがあるのを義脛は見て取ったが、呼ばれて行かなければ臆病風に吹かれたと思われるだろうと考えた。


「すぐに参上する」


 そういって使いを返した。


 法眼はいつも使っている応接間に義脛を招き入れることにした。


 素絹の衣を袈裟がけて、机には法華経を一部置いて一の巻の紐を解いて「何妙法蓮華経」とよみ上げていると、遠慮なく義脛が入ってくる。

[訳者注――鬼一法眼の本来の姿で義脛と再び対面することになった]

 法眼は片膝を立てて「こちらへ」と言った。

 そうして義脛は法眼と対座することになった。


「さる春ごろより私の所に訪ねておいでですが、いったい、どのようなお方なのかと思っておりました。恐れ多くも義朝殿の若君でありましたか。この僧のような身分の低い者と親子の契りを結んでいただいたとも聞いております。本当のことなのかと疑うようですが、もしも本当であるのでしたら実はお願いしたいことがございます」

[訳者注――この時点で、法眼は義脛が末娘と通じ合ているのを知っていたことになる]

「と申しますのも、北白川に湛海という輩がおるのですが、理由もなくこの法眼を恨んでいるのです。なんとかしていただけないでしょうか。どうやら今宵、五条の天神に参るようなので、貴方様に彼奴を斬って首をとってきていただければ今生の面目も立ち、感謝してもし尽せません」


 義脛は法眼が何を考えているかはわからなかったが、こう答えた。


「しかと承ろう。この身で叶うかどうかはわからないが、ともかく参ろう。なに、たいしたことではない。奴も石合戦程度の技を持っているだろうがな。この義脛は先に天神へ参り、奴が俯いているところの首を斬ってやろう。風が塵を吹き飛ばすように簡単なことだ」

[訳者注――ここで義脛が言っている石合戦の技とは印地(いんじ)という石投げのことである。相手を殺すこともできる戦闘技術の一つで、熟練の技術を持つ者を印地打ち、印地使いと呼んだ。法眼の二人の息子が荒くれ者の大将をしているが、それもこの印地のことであると考えられる。つまり『お前の息子たち程度の技術を持っているだろうが、この義脛には到底かなわないぞ』と言っているわけである]

 法眼は先に湛海が向かっていることをあえて伝えなかった。


「それでは、すぐに帰ってくる」


 そう言って義脛は出ていった。


 このまま天神へ行こうかと思ったが、法眼の娘のことを憎からず思っていたので末姫の部屋へと向かった。

[訳者注――義脛も末姫のことを好いていた。脛を気に入っていただけなのかもしれないが]

「これから天神へ行ってくる」


「それは何故でしょうか」


「法眼が『湛海を斬れ』と言ったからだ」


 それを聞き終わらないうちに姫君はさめざめと泣いた。


「悲しいことです。父上の心を知っていれば、貴方と会えるのはこれが最後かもしれません。これを貴方に知らせることは父にとって私は不孝の子となります。ですが知らせなければ、貴方とかわした言葉はすべて偽りとなり果てて、夫婦の恨みは後の世まで残ることでしょう」

[訳者注――『不孝』は親に対して子供としての道を守らないこととされる]
「よくよく思えば、親子は一世、夫婦は二世の契りと申します。貴方と別れて生き長らえたとしても悲しみも辛さも耐えられません。親に背いたとしてもお伝えしようと思います」
[訳者注――『親子は一世、夫婦は二世、主従は三世』ということわざ。親子の関係は一世、夫婦の関係は二世にわたり、主従関係は三世にわたるほど深いものという意味である]
「今すぐお逃げください。昨日のことです。父が湛海を呼んで酒をすすめていましたが、その時に怪しい会話をしていたのです。『ただの若造よ』と父が言うと、湛海は『一太刀でも余る』と答えていました。思えばそれは貴方のことだったのですね。このようなことを言えば女の心の内をお見せするようなものですが、『忠臣は二君に仕えず。貞女は両夫に見えず』という言葉もありますから、こうしてお伝えしたのです」
[訳者注――『忠臣は二君に仕えず。貞女は両夫に見えず』は忠実な臣下は決して仕える主人を変えず、貞節を守る女性は亡夫に操を立てて別の夫を持つことしないということわざ]
 そう言って袖を顔に押し当ててこらえきれずに泣き出した。
[訳者注――義脛の思惑はどうあれ、末姫は義脛のことを愛していたのだろう]

「最初からそのような頼み事を私にするだろうかと考えていたのだ。たくらみを知った以上、奴に斬られることはない。急いでいってくる」


 そう言って義脛は出ていった。

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