第43話 土佐坊、義脛の討手として京に上る事2

文字数 804文字

■文治元年(1185)10月

 戻った土佐坊は家来たちを呼び出してこう言った。


「鎌倉殿より勲功を賜ったぞ。これより京へ上り、領地入りをしようと思う。急いで準備をするのだ」


「それは常々の奉公によるものですか。それとも何かによっての勲功を賜ったのでしょうか」


「判官殿(義脛)を討てとの命を受けたのだ」


 それを聞いた物を知る者たちはこう申した。


「安房、上総も命あって所有できるというもの。生きて再び帰ることができてこその話であろう」

[訳者注――命あっての物種である]

 あるいはこう言って勇む者もいた。


「頼朝殿の世であられるのだから、我らもどうして世の恩恵を受けないことがあろう」


 土佐坊に付き従う者たちの心は様々であった。


 土佐坊はもともと知恵のある者だったので、京に向かうそぶりを見せては成功しないだろうと考えた。

 そこで白布で浄衣(じょうえ)を作り、烏帽子に清めた切紙(四手)をつけさせた。

 法師の頭巾にも四手をつけ、引かせる馬の尻尾と鬣にも四手を付け、神馬だと言って引くことにした。

[訳者注――つまり偽装工作である]

 鎌倉殿にとっての吉日、判官殿にとっての凶の日を選んで、九十三騎で鎌倉を立った。

 その日のうちに酒匂宿(現神奈川県小田原市)に着いた。


[訳者注――八十三騎とする資料もある]

 この相模国の一の宮(神奈川県寒川町の寒川神社)という所は、梶原景時の知行地であった。

 景時は嫡男の景季を遣わして、白栗毛と白葦毛の馬二頭に、白鞍を置いて引出物とした。

 この馬にも四手を付け、神馬として奉納した。


 夜を日に継いで進んでいき、土佐坊たちは九日で京に着いた。


 まだ日中だったので、四宮河原(京都市山科区四宮)などで日が暮れるのを待ち、九十三騎を分け、目的を悟られないように五十六騎で土佐坊は京へ入り、残りは後から京へ入った。


 土佐坊は祇園大路(四条大路)を通って、四条河原を渡り、東洞院大路を南に下っていった。

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