序章②:温泉街

文字数 3,462文字

 まさか水曜日に奇襲を仕掛けてくるとは思わなかった。というのも、既に前日の火曜日にデーモンとの一戦を交えていたからだ。
 攻撃があった次の日は休戦する。何時からか、デーモンの攻撃が始まったその頃からこのサイクルは定まっていた。つまりそれはデーモンと俺たち人間との暗黙のルールだった。俺を狙った次の日には俺に対する攻撃はしない。別の連中を標的にする。今までそういった弱々しくではあるがルールというものが人間とモンスターとの間に出来たとき、それに順応するように俺の生活スタイルは定まっていったのだ。
 にもかかわらず、今回デーモンは連チャンで俺にその恐ろしい牙を向いた。丁度俺が名湯百選に選ばれている地方の温泉宿で足湯に漬かっていた時だった。アスファルトジャングルの喧騒をすっかり忘れて夢見心地でいる最中、突如デーモンが中空から襲来し、俺の背中を鋭く恐ろしい爪で引っかいたのである。
 足湯に俺の目の醒めるような鮮血が飛び散った。
 「あぎゃァ!」
 俺はパニックに陥った。一体何故だ。何故奴らは二日連チャンで襲撃してきたのだ。今まで二日連チャンで攻撃してきた日など一度たりとも無かったはずだ。なんでや、なんでや。俺はつぶつぶと小さな声でなんでやを連呼しながら、足湯を飛び出して温泉街を逃げ回った。なんという事だろう。本日は水曜日。無論超能力は使えない。旅館に戻ればこういったときのために密輸した護身用のトカレフがあるのだが、絶望的な事に滞在中の旅館は逃走経路とは間逆に位置する。念のため逃走中、携帯で旅館に連絡を入れてみたが誰も出ない。成る程、この地方の持ち前の穏やかな気質というものは本当だったのだ。悲しいことだがネットで事前に調べた情報は真実だった。この地方の人間は六に電話にも出ないで厨房に集結し皆で四方山話に華を咲かせている。その事実を目の当たりにした時、俺は逃走しながら暗澹たる気持ちになった。俺は今根限り走っているが、いつしかその体力も果て力尽き、身内も居ないこの小さな温泉街に倒れ伏してしまうだろう。嗚呼、こんなことならばもう少し吉野家の牛丼を食べておけば良かった。昨日自宅で食べなかった冷蔵庫のナタデココ。肥満を気にせず全力で食べてしまえば良かった。今になってあらゆる後悔が募る。後悔先に立たず。目から溢れんばかりの液体が沸き上がり過ぎ去る景色に溶けていった。背中からはデーモンに受けた最初の一撃が思いのほか致命傷だったようで出血が止まらない。何てこったいと涙を薄汚れた服の袖でなぶりながら、不図目に留まったのは小さな土産物屋。しかし通常ならば、生き死にの掛かっている現在である。土産物屋など目に入る分けが無い。さすれば何故そんな俗物的な物に心奪われたかというと、何も誰かに土産を買おうなどと思ったわけでは無く、其処に学生が大挙していたからである。どうやら中学校の修学旅行のようだった。その風景を見て俺は死に物狂いでその群れに駆け寄った。それはほとんど本能ともいうべき行動だった。
 案の定居た。ウォーターマンのトミーだ。奴は中学校の英語教師をしている。俺はトミーを大声で呼んだ。
 「ト、トミーさん!」
 トミーは学生たちに囲まれてゲジゲジのストラップを押し付けられていた。トミーは昆虫が何よりも嫌いなのである。トミーはこっちを見ておれの姿を確認したが、日常的に生徒にイジられているその姿を俺に見られたく無かったのか、すぐに視線を他所にやってしまった。俺はそのトミーの行動に酷くぶち切れて、奴の浮気相手の名前を大声で何度も叫んだ。学生たちは何事かと一斉に此方を見た。その声を聞いた途端トミーの顔色が一瞬で修羅に変わり、一目散に俺の下に飛んできてかつてのボクサー時代の頃の年季の入ったリバーブローを俺の脇腹に深々と突き刺した。俺はゆっくりとその場に倒れこみながら薄れ行く意識の中で、トミーが学生たちに向かって「ドントウォーリー。アイ・ビリーブ。ドンウォーリー」と言うのを聞いた。


 そのまま俺はどうやらトミーの宿に連れて行かれたようだった。デーモンは一旦引いたらしい。目が覚めると俺は布団に寝ており、傷もしっかりと治療されていた。そして、傍に正座しているトミーと小林君に気がついた。この小林君というのは中学生だが英語が話せる秀才であり、なおかつ野戦医療にも長けている。出自は全くもって不明であり、俺は幾度となく密偵を送り込み彼の素性を調べようとしたが、その密偵が悉く謎の失踪を遂げ無駄だった。彼は超能力者ではないが何故俺とトミーの間に居るかと言うと、トミーは日本語が話せないからだった。つまり小林君は通訳の役目をしている。これは他の能力者とのコンタクトの際も同様で、つまりトミーと小林君はセットで存在しているのである。
 起き上がってまず俺はトミーに対して先ほどの浮気相手の名を叫んだことを丁寧に詫びた。小林君はおそらくまだ童貞なのだろう、詳細を知らずとも分かるうっすらとした大人の会話の中にそこはかとなく香る男女間の桃色事情を嗅ぎ取り、少し頬を桜色に染めた。そして桜色の頬を小さく緩やかに揺らしながら、テキサス訛りの英語でそれをトミーに通訳してくれた。何故小林君の英語がテキサス訛りという事を俺が知っているかというと、トミーが再三、小林君が居ない時におれの耳元で「コバヤシ、イズー、ププッ…。テキサス…」というからだった。そういうときのトミーの顔は何時も酷く汚らわしいものだった。
 トミーは俺の侘びを冷静に受け入れてくれ、俺の傷を気遣った。俺はその心遣いが嬉しかった。そしてデーモンを倒す為どうしてもトミーの助けが欲しかった俺は、それから一通りトミーの気分を盛り上げるためトミーの近況を聞いたり、生活感のある話題やちょっとしたウンチクなどを散りばめたためになる話をしたり、俺の今まで培ってきた美辞麗句を駆使し、どうにかトミーがデーモンの撃退に力を貸してくれるよう尽力した。トミーの能力は水曜日に発揮される。つまり今日が絶好なのだ。もうそろそろ良い頃合だろうと思い、俺はさっそく本題を切り出した。
 「ところでトミー…」
 「NO!」
 俺はまだ一言も小林君に通訳をしてもらってはいなかった。こういうとき、ひょっとすると実はトミーは今ではすっかり日本語が理解できており、その語感に潜む微妙な機微や空気感をも感じとっているのでは無いかと疑った。しかし四六時中トミーに付き添っている小林君にいくら聞いても、アノ人は全く分かっていませんよ、というばかりで一向に埒が明かないのである。
 仕方が無いと思い、俺は財布の中から現金を出した。旅行ということでいつもより多めに現金をもっていた。全部で二百万あった。
 「これで如何か」
 トミーは小林君になにやら小声で指示を出し、それを聞くと小林君は部屋を出ていった。そうしてトミーは俺の方を見ながらゆっくりと笑顔で頷いた。


 それから俺たちは、俺がデーモンに襲われた足湯に戻ってきた。遠くから見てみるとよくは分からなかったが、近くまできて初めて分かった。先ほどの俺を襲ったデーモンが足湯に漬かりながら夢見心地で日頃の喧騒をすっかり忘れるかの如く全力でくつろいでいたのである。俺はそれを見て酷くぶち切れ髪の毛が逆立った。明確な殺意を自覚した瞬間である。するとトミーが俺を緩やかに制止して前に躍り出た。次の瞬間、小林君が俺とトミーに浮き輪を手渡した。
 トミーが天に向かって両手を広げ「モーゼダー」と叫ぶと、大地に蠢く全ての水が大きな洪水となって温泉街を飲み込んだ。俺とトミーと小林君は必死になって浮き輪に捕まり大洪水をなんとかしのいだ。
 それから丸一日ほど経ったか、大方洪水は止み、後には建物の瓦礫とドザエモンが散乱していた。トミーは「だからあんまりやりたくないんだよ」と苦笑しながら小林君を通じて俺に言った。
 それから俺は丁寧に彼らに感謝をして別れた後、近所のホームセンターに行って縄を購入した。足湯の辺りを死に物狂いで捜索すると、俺を襲ったデーモンが阿呆面をして気絶していた。そいつの身体を縄でぐるぐる巻きに縛り、比較的被害の少なかった別の宿にそのデーモンを連れて泊まりなおした。
 それから火曜日までをその宿で過ごし、火曜日のアラームが鳴った瞬間に、俺は鬼というよりは鬼神のごとき雷神の感じでもって、その宿もろともデーモンを消し炭にしてから家に帰った。

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