第23話 赤龍会事務所③

文字数 4,265文字

 点滴の細いチューブが差し込まれた右手を、ゆっくりと顔の近くに持っていき、芥次郎は肘置きに頬杖を突く。
「ああ。お前が出ていってから、眼に見えるように状況が変わったぜ。勿論、極めて悪い方にな。こんなサイテーな状況、他人事だったらどんなに面白かっただろうに。」
 頬杖をついたまま何が可笑しいのか、左手で口を抑えつつクックックと笑う。
「ふん。そう云う割には、今のあんた、顔色は良さそうに見えるがな。だがそれにしても、何なんだよその恰好。車椅子に乗って、両手には点滴打って。道でぼーっとしてて、デカいダンプカーにでも轢かれたか?」
 今、目の前に居る芥はこの上も無く奇妙だ。
 表情は健康的であるにも関わらず、身体はまるで病人のような有様。だが、だからこそ警戒する必要があると、俺の直観が告げている。凡そ、眼に見えている全てのモノには理由があるのだ。其れを出来るだけ事前に読み解いていく。其れが出来ないと、此処では其れが即、死に繋がる。
 芥は俺の言葉を聞きながらも、終始落ち着いていた。以前はもう少し、小者のような雰囲気を醸し出していたのだが、今目の前に居る奴はまるで違う。この一年間、奴の中で何かしらの変化があったのかもしれない。
「轢かれる?ああ、何の事かと思えば、この身体の事か。…ナルホドねぇ。イヤイヤ、違う違う。是は今、休憩しているところだ。」
「休憩?」
「昨日少しばかり、身体を酷使し過ぎたものでね。此奴(こいつ)… …後ろの此奴はヴァレリィってんだが、此奴に頼んで身体を休めるのを手伝ってもらってたんだよ。」
 芥は点滴の刺さった手で後ろの背広の男を親指で指す。
「ヴァレリィ…」
 そんな名前の能力者、聞いた事が無い。この辺りで暗殺稼業(しごと)をしているなら、同業には必ずウワサが回ってくるはずだ。だが、そういう話はデンからも聞いた事が無い。一体何者だろう。
 そしてまた、芥は身体を酷使していると云った。其れは一体どういう事なのか。身体を酷使して歩けないから、車椅子に乗っている。酷使とはする程、何かで消耗したということ。
 芥と話ながら、状況に頭を巡らせていると、絶マキコが俺に小声で話掛けてきた。
「…… … …竹田、… …あの車椅子のタイヤ。あの鋭い針のスパイク、普通じゃ無いよね。なんか武器っぽい気がする。」
「… …あぁ。其れは俺も思っていた。やっぱり、芥の様子が奇妙だ。何か、以前と大分違う。」
「芥は無能力者なんだよね?」
「そうだ。此奴は昔からケンカが苦手だったはず。だが、今目の前に居る奴は、何らかの戦闘手段を持ってるような気がする。… …それがハッキリするまで、此方から仕掛けるんじゃないぞ、二人とも。」
「… …分かった。」
「はい。」
 視線は芥の方に向けながら、俺は絶姉妹と情報共有する。その様を見ながら、芥が気楽にといった感じで声を掛けてくる。
「で、其方のお嬢さんたちは、一体どういう知り合いなんだ?なんだか身体が透けているような、不思議な少女たちのようだが。」
 ここにきて、芥は冗談のようなシラを切った。芥がいつもやる、安っぽい挑発だ。熱血な絶マキコがすぐ様反応してしまう。
「… ……!… …竹田!」
「まぁ、待て。」
「…自分たちが、今回の件を謀ったクセに。私たちの事を知らないなんて、よくもそんな… …」
 芥の言葉を聞いて、前方を睨みつけながら絶ヨウコも言葉を吐く。俺は絶姉妹の言葉を代弁するように、言葉を発した。
「こいつ等の事は、あんたの方が良く知ってるんじゃねーの?絶ファタマと絶クォリ。こいつ等の両親殺しの因果を俺に擦り付けて、絶姉妹を刺客に寄越したのは、あんただろう?」
 芥の目元がまた少し笑う。
「おぉ、お嬢さんたちが、かの有名な絶姉妹だったのか。全く分からなかったよ、是はとんだ無礼をした。申し訳ない。お二方、これは初めまして。ワタクシ、芥次郎と申します。ウワサはかねがね聞いていたんだが、なんとまぁ、こんなに可愛らしい少女達だったとは。」
「… ……執拗(しつこ)い野郎だぜ。… …詰まらない茶番は、もう良いって。」
 俺は組長席の上にあった絶夫婦の写真を人差し指と中指で挟んで、芥次郎へ鋭く投げつける。写真は空を切り裂き、芥の眼玉目掛けて一散(いっさん)に飛んで行く。が、写真は芥の顔のすぐ前に黒皮手袋の手の平が現れ、ぴたりと受け止められてしまった。背広の男、ヴァレリィが阻止したのだ。手の中で写真がぐしゃりと潰される。
「… …… …絶姉妹が火曜日の稲妻(チューズデイサンダー)を殺してくれる事を期待したのだが… …」
 ヴァレリイが狐の面の下から、唐突に話始めた。
「どうやら、計算違いだったようだ。」
「… …… …おいおい、ヴァレリィ。もう少しこいつらと遊ばせてくれよ。俺たち、久々の再会なんだから。」
 芥がヴァレリィの言葉を引き取って、異議を申し立てる。
「… …… …あなたには申し訳無いが、此方ももう

のでね… …。…… …幸いターゲットがこうして、わざわざ此の事務所まで来てくださっているんだ。さっさと処理してしまおう。」
「… ………」
「………」
 一瞬の間。
「… …… ……チッ。再会の余韻にも浸らせてくれねぇのかよ。… …しゃあねぇな、分かったよ。それじゃあ、軽口叩いてないで、そろそろ本題に入ろうかね。」
 芥はそう云うと、狐の面に向けていた顔をゆっくりと此方に向ける。
「悪ぃな、竹田。もう少し時間掛けてお前の遺言を聞こうと思ってたんだが、そうも行かねぇみたいだ。」
「… ……おう。俺もあんたと仲良く昔話なんかするつもりは無ぇよ。… …てゆうか、あんた戦闘なんか出来たっけ?… …組に居た頃も、あんたが戦ってるところなんて見た事無いんだが。あんたはいつも、蚊帳の外から子犬のようにキャンキャン吠えてただけだったよな。」
 俺は右手に持った護身用のトカレフで芥を指しながら云う。その間も車椅子に座っている芥次郎には怪しい動きは無い。だが、俺も絶姉妹も相手の一挙手一投足に神経を尖らせている。
「… ……… ……… ……竹田ぁ。…… …お前の所為なんだよ。… ……お前の所為で、俺の最後の野望、何もかも台無しになっちまった… …。」
 それまで笑っていた芥次郎の顔面が、徐々に醜く歪んでいく。闇より暗く低い声と、其れはきっと憎しみに押しつぶされた人間の顔。ついに芥の本性が現れ始めた。
「… …芥。俺はあの時、やめとけって忠告したはずだぜ。身の丈に合わない事は必ず身を滅ぼすってな。だのに、お前は()めなかった。今そうなったあんたの状況も、全ては自分自身のサビだって事さ。」
「… …ウゥウウウウウウウ… ……」
「… …!…… …点滴、見て。」
 絶ヨウコが俺の隣で呟く。俺と絶マキコが目をやると、芥次郎の両手に繋がっている点滴袋の中の薬液が急速に減っている。
「そろそろ、来るね。」
 そう云いながら、絶マキコが唇を舐め両手に苦無(くない)を構える。絶ヨウコも一刀雨垂れの刃を後ろに向け、脇構えに置いた。
「… …ウゥ……… ……た、竹田ぁ…。…ハァ、ハァ…… ……俺ぁな、お前を、お前を俺のこの手で、殺してやろうとずっと考えてたんだよ… …。ずっと、お前が居なくなってから、ずっと、その事だけを考えて生きてきた… …」
 薬液が全て注入された芥の顔面には、無数の血管が浮き出ていた。最早、両目は血走り、焦点が全く定まっていない。
「ああ、そうかよ。奇遇だな。俺らもお前の息の根を止めてやろうと、此処まで来たんだよ。」
「… …グッ… …グォオオオオオ」
 呻き声を上げている芥が車椅子と共に宙に浮き始めた。芥のなんらかの攻撃かと思っていたが、それは違った。後ろに立っている背広の男が、左の手の平でゆっくりと持ち上げるような仕草をしている。車椅子は其れと共に浮かび上がっているようだった。その間も芥は身体を左右に揺らしながら、苦し気な奇声を上げている。
「気を付けろ、来るぞッ!」
 次の瞬間、芥の座った車椅子が何らかの大きな力によって、押し出されるように物凄いスピードで俺たちの方へ飛んできた。車椅子のタイヤのスパイクについた針が、先ほどよりも大きく鋭くなっている。
「うわーッ!!」
「…!」
 絶マキコと絶ヨウコが紙一重で避けたところに、芥の座った車椅子が、組長席へ思いっきり突っ込んだ。ぶつかった際の激突音が部屋中に響き渡る。組長席は飴細工のように歪な形に変形し、その窪んだところに芥がめり込んでいる。衝撃で辺りにあった様々な書類の紙が宙に舞い散った。あまりにも出鱈目な一撃に、俺と姉妹は動揺を隠せない。
「ちょ、ちょっと… …なんなの、一体…」
 なんとか避けた絶マキコは、態勢を崩して床に尻もちをついていた。絶ヨウコは宙に逃れたようで、窓側の天井の隅に身体を預けて浮かんでいる。そして、芥次郎の動きを未然に予測していた俺は、壁際に避難していた。
「… … ……マキコ!!」
「ぎゃっ」
 その時、絶マキコの首筋を、大きく無骨な片腕が掴んだ。その腕の伸びる先は… …芥だった。
 組長席にめり込んだままの芥から、ありえない方向に()じれ長く伸びた片腕が、絶マキコの首元まで伸びていた。そして、その腕は獣のような体毛に覆われている。芥の顔が此方を向いた。
「… …芥… … ……あんた… ……」
「 … …はぁ… …はぁ、…ハァ……。…へ、へへへ。竹田ぁ… …… …… ……びっくりしたかぁ?…… … ……お、俺よぉ、… …人間、やめちまったよ……… …………へへへ… …… …」
 其処には一匹のデーモンが居た。
 かつて芥だった、デーモンだ。
「… …ち、力がよぉ。… …なんだか、とめどなく湧き上がってきてよ。自分でも、止めらんねぇんだ… …。誰かをぶっ殺したくて堪らなくってな。… …あのクソ共、せっかく雇ってやったから、気が向いたらぶっ殺してやってんだけどよ… ……。…何の慰めにもなりゃしねぇ。… …… …やっぱ、オメェじゃねーとなぁ… …。… …オメェの、腕や足を引き千切って… …ボロボロにしちまわねぇとなぁ… ……」
 絶マキコの首を持ったまま、芥が俺に向かって云い、そのまま獣の咆哮のような叫び声を上げた。
 芥の顔面に、既に人間の面影は無かった。其処には犬のように尖った鼻と口を持った獣の顔があった。長い舌を口の脇から垂らし、餌を求めるように荒い息を立てている。芥の座った車椅子の両輪が狂ったように回転を始め、鋭い針のスパイクが組長席と床を激しく削ると、芥は、組長席の窪みから身体を起こした。


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