(76)魔女裁判と宗教改革

文字数 1,477文字

魔女裁判は、ローマ教会に馴染まない魔女的異端者(呪術師、産婆等)を、ローマ教皇庁及び異端審問官が「悪魔との結託者」と処理したことから始まった。
その後、新旧両教徒がお互いを異端者(悪魔との結託者:魔女)として、双方の側で魔女裁判が激化した。
南ドイツのヴュルツベルグ、バンベルク(カトリック系)では、熱狂的な魔女狩を行ったが、摘発された魔女の多くは男性であり、法廷記録の多くにルター派と書かれている。
尚、新旧両勢力の抗争が30年戦争(1618~1648)に直結し、魔女狩りの最盛期となった。
結果として、ドイツの都市と農村を疲弊させることになった。

魔女裁判において、悪名高い地域は、アルプスの麓、ジェラ山脈、ヴォージュ山地、ピレネー山脈やその周辺の高地の裁判所である。
次に、イタリアのピエモンテ地方、フランスのギエンヌ地方、アルトア地方、ロレーヌ地方、フランシュ=コンテ地方になる。
また、ドイツのライン地方、南ドイツ、ベルギー全域の裁判所も悪名高い。
どの地域も、古い異教的伝統が残る山岳地帯、農村地帯、様々な文化が合流する辺境あるいは、新旧両教徒の角逐の場である。
新教の布教家は、それまでに魔女狩りが存在しなかった、ドイツ各地やスコットランド、フランドル、ネーデルラントに布教を行い、新旧両教徒の対立から、魔女大迫害をもたらした。
カトリックがプロテスタントの地域を再征服すると、再び魔女狩りが大展開した。(1590年代のドイツ、フランドル、ラインラントで迫害の嵐、1627~1629にも大迫害)
全体的に激しかったのは、17世紀最初の四半世紀。ついで、1640年代、1660年代だった。
その後、1650年代に科学の進歩とともに、懐疑的な風潮が生まれ、17世紀末には、ヨーロッパ全域から魔女狩りの炎は消えた。

各国ごとに簡略化すると、
(フランス)
13世紀頃から魔女狩りを行っている。(魔女狩りを始めた本家である)
新旧両教徒の抗争も激しく、数万~10万以上の魔女が殺され、焼かれた。
サン・バルテルミーの大虐殺も、一種の魔女狩りとする説もある。
※サン・バルテルミーの大虐殺
中世のフランスのヴァロワ朝の時代、宗教戦争であるユグノー戦争(1561~1598年)の最中の1572年8月に起きた、カトリック勢力によるプロテスタント(カルヴァン派)に対する大虐殺。
国王の母で摂政のカトリーヌ=ド=メディシの娘のマルグリットと、新教徒のブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)の結婚式(8月18日)のためにパリに集まった新教徒(ユグノー)たちを旧教徒が一斉に襲撃して、8月23日夜から24日にかけて虐殺した。
パリでは約4千人が殺害され、さらに虐殺は全土に及んで新教徒数万人が殺された。

(ドイツ)
・宗教改革の本場ドイツは、最も苛烈な魔女狩り、魔女裁判の本場でもあった。
・宗教改革から魔女裁判が苛烈になった。(新教徒の手による)

(スコットランド)
・宗教改革前は一人の魔女も火刑になっていない。
・摘発と処刑が厳格化したのは、ヒステリックな魔女狩り王ジェームズ6世とカルヴァン主義の長老の手による。

(イングランド)
・魔女裁判は他地域に比べて微弱。
・新教徒として旗幟鮮明のエリザベス女王が魔女狩り強化令を発布(1563)してから盛んになった。
・ジェームズ1世(1604)の強化令でさらに激化し、清教徒の支配でピークになった。

(アイルランド)
・旧教が強く新教との抗争が微弱だった。
・最初の魔女裁判(1314)から~最後(1711))までは、僅か5件。
・それも最初以外は、全て新教徒による裁判である。


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