(10)アルビジョア十字軍①12世紀、南仏の状況、十字軍の結成と進軍。

文字数 1,546文字

12世紀末に入ると、南フランスでは、異端者が白昼公然と町を横行するなど、異端化が進んだ。
特に、トゥールーズ地方では、市民の大半が異端者であり、ローマ・カトリック教会の意向に沿って、異端を壊滅しようとすれば、領主自らが、領民の大半を殺さなければならなかった。(そのため、異端の撲滅など。できるはずがなかった)
そして貴族社会に密着した現地司教と教会も、異端弾圧の任務が課せられていると言っても、全く身動きができる状態ではなかったのである。

そのような、特にローマ・カトリック教会にとって問題が深い状態の時、「史上最強のローマ教皇」イノケンティウス3世が、1198年に即位した、
※イノケンティウス3世:在位1198年~1216年)。ドイツ国王の選出に干渉し、ローマ教皇による採決権を主張、抵抗した神聖ローマ皇帝オットー4世)を破門。また、王妃離婚問題からフランスのフィリップ2世を、さらにカンタベリー大司教叙任問題でイギリス王ジョンをそれぞれ破門し、権威を示した。(世界の君主を自認し、英独仏君主を破門した)。
自ら、「教皇は太陽、皇帝は月」と、豪語したとされる。

そのイノケンティウス3世は、当初の異端者撲滅対策として、布教使を南フランスに派遣することにした。
(後に残虐な異端審問と魔女狩りの主役となったドミニコ会を創設した、聖ドミニコを含む)(ドミニコは、粗衣及び裸足の、清貧求道者にして火を吐くような熱弁を行い、異端者に対して改宗のための説教を行ったものの、当時の実際の効果は芳しくなかったとされる)

その対策も空しく、1208年1月、トゥールーズに派遣されていたローマ教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、ローヌ河畔で暗殺(刺殺)されるという事件が発生した。
下手人は逃亡したものの、特使ピエール・ド・カステルノーが当地ラングドック最大の領主トゥールーズ伯レーモン6世を、「異端者庇護」を理由に破門した直後だったことから、レーモン6世の密命によるものと、教皇イノケンティウス3世に解釈された。
イノケンティウス3世は、ローマ教皇とカトリック信仰に対する最大の侮辱、身の程をわきまえない挑戦と判断し、翌年、フランス国王フィリップ2世に要請し、「異端討伐の軍・アルビジョア十字軍」を結成した。(※フィリップ2世は、イングランド王ジョンと神聖ローマ皇帝オットー4世との対立抗争を理由に、結局は断った)

総司令官には、第4回十字軍でコンスタンティノープル(これも、ローマ・カトリックが同じキリスト教国を攻撃した)を征服し戻って来た直後の、シモン・ド・モンフォールを任命した。
また、教会側指導者に、武勇と宗教的情熱で著名だったシトー派修道院長アルノー・アモーリが任命された。

1209年、北フランスを中心に各地から約1万の十字軍がリヨンに集結した。
事態の容易ならざることを悟ったトゥールーズ伯レーモン6世は、アルビ派を規制することを誓い十字軍に参加した。(自らの領民に対しては、実際に手出しはせずに、傍観者的態度だったとされる)
レーモン6世の甥にあたるカルカソンヌとアルビの領主であるレーモン・ロジェも十字軍との妥協を図ったが拒絶され、やむなくカルカソンヌに戻り防衛を準備した。
ローマ教皇イノケンティウス3世の「使徒の座の威信にかけて破門貴族の領地と財産は、その討伐者の私有に供する」旨の発表を受け、南仏と対立していた、北仏の騎士及び一旗組の冒険者が「聖戦」に参加した。
領導はシトー派修道院長アルノー・アモーリ(兼教皇特使、後にナルボンヌ大司教)が務め、南仏に進軍した。
カルカソンヌ、ペジェ、トゥールーズ他、次々に陥落させるとともに、現地住民の大量虐殺と略奪の限りを尽くすことになったのである。
※その実際は次回以降。
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