(69)魔女裁判⑤

文字数 2,734文字

魔女裁判における「証言」に関して、重要な文言がある。
魔女裁判におけるバイブル「魔女の槌」では、以下のように書かれている。
「信仰に関する裁判においては、破門を宣告された者、被告の共犯者、名うての悪人や前科者、及びその下僕等も、被告に不利な証言を行う場合に限り、証人として認められる」
「異端者が他の異端者の罪を証言することが許されていると同様に、魔女も他の魔女の罪を証言することが出来る」
「ただし、これは他に証拠がない場合に限られる。このことは、被告の妻、子、及びその親類が証言する場合についても同じである」

また、アンリ・ボゲは、
「魔女の罪については、あらゆる種類の人間が証人として認められる」
「共犯者すら認められる」
「魔女の犯行は、大部分が夜間、しかも常に密に行われるものである」
「そのため、魔女集会に関する証人としては共犯者以上の適格者は他にない」。
「この犯罪については思春期(男14歳、女12歳)に達しない子供の証言も排斥してはならない」
「なぜなら魔女は、どんなに年少であっても、自分の子供を近所の子供と一緒に魔女集会に連れて行くのは、周知の事実であるためである」
「自分の胎内にいるうちに。既に魔王に捧げることを誓った子供を、連れて行かない理由はない」
「魔王集会に出席した者こそ。最も適格な証人であるため、これらの子供の証言もまた、認められなければならない」

ニューイングランドの「セーレムの魔女」(1692)における証人エリザベス・パリスは9歳、アビゲイル・ウィリアムズは11歳。アンヌ・パトナムは12歳である。
また、イングランドの「聖オシスの魔女事件」(1582)では、6歳から9歳までの子供の証言でさえ、認めている。

魔女狩りに奔走した異端審問官ニコラ・レミーは、魔女として焼かれる母親の姿を幼い子供に見せたうえ、裸にして3回鞭打つことを、常とした。
そのレミーは、晩年、痛切に後悔したと言われている。
「幼い子供に、寛大過ぎた」
「子供も焼くべきであった」
「魔女を撲滅するには、悪魔の血を受けた子供を生かしておいてはならなかった」

(参考)
「セーレムの魔女事件」
セーレムの牧師サムエム・パリスは厳しい牧師であった。
その娘たち(パリスの9歳の娘、他十代の娘たちが)は、使用していた黒人奴隷(その中の一組の夫婦)が秘密に行うブードゥー教(一種の魔術的宗教)の儀式を常に見せられ、魔女物語を夜毎に聞かされていた。
ブードゥー教(一種の魔術的宗教)の儀式に感化された娘たちは、次第にヒステリックな異常な挙動を示すようになった。
娘たちが、「魔女の妖術にかかった」、の噂が村中に広まり、魔女狩りが始まった。
1692年の2月29日に、最初の逮捕(3人)が行われ、翌日3月1日から裁判が開始された。(3人の女性には、共通する特徴があった。セーレム村という一つのコミュニティ内で孤立し、立場が弱かった)
アメリカにおいても、ヨーロッパと同様に厳しい尋問と拷問により、嘘の自供が引き出され、次々に共犯者が作られた。
結果は3人とも有罪。罪を自白し認めていたのは1人だけで、他の2人は無罪を主張しながらも、有罪とされた。
その原因は、証言者である少女たちが、自身の証言を強調し、暴れたためだった。
結果として、罪を「認めざるを得ない」状況にあった。
その上、少女たちは次々と「××が魔女である」といった趣旨の証言を行った。
魔女とされた1人の自身の証言も相まって、数多くの人が裁判を受ける事態に発展した。

牧師サムエム・パリスは、この魔女狩りの先頭に立ち続けた。

知事は、コトン・メーザー(「妖術と悪魔付きに関する注目するべき神慮:1689」の著者で、この方面の学問的権威、ニューイングランドで最大のボストン北部教会の牧師)にセーレム事件について意見を求めた。
コトン・メーザーは、「迅速かつ活発な起訴」を勧めた。

魔女狩りは、ボストン、アンドーヴァ、グロスター、チャールズタウン、ソールズベリー(セーレム周辺地域)に拡散、容疑者は200人に増加した。
最初に有罪判決を受けた31名のうち、6月10日の処刑から、9月22日までに、20名が絞殺された。
次々に人が裁判にかけられている最中、世間の人々の頭からは「裁判の公平性」・「証言の正当性」と言ったことが完全に抜けていた。(魔女裁判独特の性格である)

そしてそれは、判事や検察官といった、裁判を司る人々や、騒ぎを治めるために派遣された植民地判事たちも同じであった。
全員が、盲目的に少女の証言を信じた。
実際、1人の魔女を絞首台に送ったのは、わずか4歳の少女の証言だったこともあった。

1692年の秋ごろから、事態は大きな変化を見せた。
魔女や魔法使いとして起訴されるのが、一般の人々だけでなく上流階級にも及んだことが、原因だった。
牧師とハーバード大学の学長を兼務するサミュエル・ウィラードという人物が起訴されたことが、判事たちの目を覚まさせた。

「少女たちの証言は、本当なのだろうか」

この疑問を判事や人々が抱き始めると、事態は急激に収束に向かうことになった。
少女たちの証言を見直し、その正当性が無いことを認める方向に向かった。

また、ボストンの商人ロバート・カレフが、この魔女裁判の不合理の核心をつく抗議文を、事実に立脚して、コトン・メーザー他有力な魔女狩り支持者に書き、世論が支持した。
ただし、コトン・メーザーと魔女狩り支持者は、この世論に対する反論を行った。 
※「目に見えぬ世界の脅威」(コトン・メーザー著述/1693)等

しかし、嘘の自白を強要された被告たちが、「真実の自白」を訴え始めた。
事件の発端となったヒストリー娘たちが、悪魔祓いを受け正常な精神に戻り、真相を打ち明け始めた。
1693年5月に、知事は獄中の被告全員を放免した。

三年後の1696年1月14日に、セーレムの魔女裁判に立ち会った陪審員12名の連署により、自分たちの判定に対する修正書を提出した。
「1692年、不当にも傷つけた全ての人に赦しを乞い、二度と同じ過ちを起こさないことを、全世界に対し言明する」
裁判官サムエル・シューアルは、全判決の無根拠を反省し、自らの非を率直に公表した。
全被告(既に処刑された者を含む)の判決は破棄、損害は賠償された。

そして、魔女狂いの牧師パリスは追放された。

「聖オシスの魔女事件」(1582)
イングランドのエセックス州セント・オシス村で行われた魔女裁判。
この裁判では、アースリィ・ケンプという女性を含む複数の人々が魔女として告発された。
ケンプは産婆や病治しとして働いていたが、ある治療費の争いが原因で魔女として訴えられ、最終的には13人の女性が裁かれ、そのうち2人が処刑された。

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