(11)アルビジョア十字軍残酷記録①

文字数 1,637文字

1)ベジェ
1209年7月21日、十字軍の主力が、ローヌ河沿いに南下し、ベジェの町を包囲した。
ベジェの人口は、正確には不明であるが、9千人~1万2千人。
市内には、異端者と、ローマ・カトリックの信者が混じり合っている状態で、異端の見分けが出来ない状態だった。
そこで十字軍兵士は、教会側の領導者シトー派修道院長アルノー・アモーリに、伺いを立てた。
シトー派修道院長アルノー・アモーリは、答えた。
「異端者が死を免れるために、ローマ・カトリックを装い、十字軍が去った後に、再び異端に戻る懸念がある」

「そもそも、死者の霊魂の正邪については、神がお決めになる」
「だから迷う必要はない、目に見える住民は、区別なく、全て殺せ」

「ローマ・カトリックであれば、神の加護で、殺されたとしても、正しい魂であるので、天国に迎えられる」
「異端であれば、そのまま地獄に落とされるに過ぎない」
※無差別殺戮の許可を与えたとされる、有名な言葉。

別の説もある。
兵士たちは貴族に命令を仰ぐことなく、自然発生的に市内に乱入し、たちまちにベジェの町を占領した。
目に見える住民をことごとく殺戮し、町に火を放った。
幼い子供も、高齢者も胸を刺され首を斬られ、殺害を免れなかった。
その、殺された住民のうち、アルビ派は実際には約500人に過ぎなかったとされているが、ベジェ占領は聖女マリー・マドレーヌの祝日であったことから、神意による裁きと判断された。
そして、十字軍は夥しい死体を前に、神に感謝の祈りを捧げた。

2)カルカソンヌ
堅牢な城壁都市だったが、避難してきた周辺の住民で人口過密状態となっており、水の手を絶たれるとわずか1週間で降伏した。ここでは虐殺は行われなかったが、住民は街から追放された
3)ミネルブ
実際に十字軍に随行したピエール・デ・ヴォードセルネー(シトー会士、ヴォードセルネー修道院の修道僧)の「アルビジョワの歴史:1213年」の記述によると、
1210年、十字軍はベジェより小さな町、ミネルブを包囲した。
当地の領主ギヨーム・ド・ミネルブは、十字軍の猛攻に耐えかね、開城を申し出た。
しかし、領導のシトー派修道院長アルノー・アモーリは、はなはだ不本意を示した。
「私は、キリストの敵は皆殺しするべきであると、燃えるような情熱を持っていた」
「ただ、それを言わなかったのは、自分が修道僧で、司祭でもあるので、ためらったに過ぎない」
結局、領主と住民は助命し、住民の中の異端への帰依者に対しては「母なる教会への帰参」を望むなら助命することにした。
本来の掃蕩目的の異端完徳者に対しても、悔悛すれば助命するとしたが、悔悛者はほとんど、いなかった。
異端完徳者140人は、自ら進んで火の中に入ったのである。

4)カストル
カストルの町の戦闘後、火刑台に連行された異端者の中に、改宗を申し出る者がいた。
そこで十字軍内部で、議論になった。
「悔悛して助命を願うのだから、処刑すべきでない」との意見と、
「異端であり、悔悛は死を恐れるための一時的な演技であるので、処刑するべき」意見に分かれた。

総司令官シモン・ド・モンフォールは処刑を命じた。
「その改宗の誓いが真実なものであっても、いままでの異端の罪で処刑するべきである」
「また、改宗の誓いが虚偽であるのなら偽証の罪で殺さなければならない」
「真に悔悛していれば、火が罪を浄めるであろうし、偽りの悔悛であるならば、正当な神罰である」
「いずれにせよ、処刑の中で、魂の扱いは、神がお決めになられる」

十字軍においては、軍人だけでなく、教会関係者も、戦闘慣れ、殺人(虐殺)慣れのためか、人の命を、いとも簡単に惨く奪った。
「異端撲滅」を理由にした「虐殺嗜好」「大量殺戮嗜好」が、教会や十字軍に蔓延していたとする学者もいる。

この十字軍の所業において、「7の70倍許せ」(マタイ福音書)の精神は、何もない。
「異端は、そもそも同胞でも、人でもない」のだから、「自由に殺していい(殺すべきである)」、そんな解釈なのだろうか。
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