(43)ベルナール・クレルグの事件 ジャック・フルニエ審問記録より

文字数 2,255文字

ジャック・フルニエ(後の教皇ベネディクトゥス12世)は、1317年にパミエに司教として、着任した。
彼は、異端根絶の熱意を持ち、徹底した召喚を行い、村民と対決した。
(彼自身が、南フランスの農村の出身で、農村の事情に詳しかった)
ただ、村民の中には、異端審問に対して、様々な抵抗を示す者がいた。
以下、村民ベルナール・クレルグの抗弁と結果を、ジャック・フルニエ審問記録より紹介してみたい。

村民ベルナール・クレルグは、かつて異端審問官ジョフロワ・ダブリのモンタイユー大捜索(ピエール・オーティエ捕縛のため)の時は、屋敷を提供するなどして、異端審問には多大な協力を行った実績がある。
しかし、実はベルナール・クレルグは、兄弟の司祭ピエール・クレルグとともに、異端者と密接な関係があった。
そして、1320年には、召喚されてもいないのに、カルカソンヌに出向き、自発的に供述を行ったのである。

「以前、村の中の妻の実家で、異端者を見たことがある」
「ただし、当時の自分は婚約者だったので、妻の顔を見ることが目的で、異端者目当てではなかった」
「それに、その当時は、村でも役についていなかったので、報告義務にまでは、考えが及ばなかった」

追加して、ベルナール・クレルグが隣人村民の多くを密告したため、当時の異端審問官ジョフロワ・ダブリは、不問に付した。(普通はありえない)(自らを守るための、司法取引の感がある)
そして、ベルナール・クレルグは異端審問官との密接な関係を作ることにより、故郷の村内で支配的地位を確立した。

ただし、パミエ司教ジャック・フルニエは、ベルナール・クレルグが異端審問官ジョフロワ・ダブリを欺いていることを、察知していた。
その後、1321年に、まず、ベルナール・クレルグの兄弟の司祭ピエール・クレルグを召喚し監禁した。
それを知ったベルナール・クレルグはカルカソンヌに出頭して、自発的に供述を行った。
※旧知の異端審問官ジョフロワ・ダブリは故人になっていた。
(カルカソンヌ異端審問所との良好な関係をアピールして、自分と兄弟の立場を有利にする策略だった)

その上で、カルカソンヌに同道させた村民に「偽証して欲しい」と圧力をかけていたらしい。
「ゴマカシが成功すれば、今、お前が着けている十字の着用免除と没収された畑と牧草地の返還を、異端審問官に頼む」と約束したのである。※同道した村民の供述による。
同道した村民は、一旦、断ったが、結局承知した。
しかし、村民は、カルカソンヌで供述に失敗した。
ベルナールの言う通りに話せなかったのである。(異端審問官により、論破されてしまった)
村民は、結局、翌日カルカソンヌに再出頭し、昨日の供述を訂正する破目になった。

1321年5月22日、パミエ司教ジャック・フルニエは、ベルナール・クレルグに召喚を通知した。
しかし、ベルナール・クレルグは無視したので、強制連行を行い、即刻破門した。
ベルナール・クレルグは、尋問に対しては、以前にカルカソンヌと、同じ内容の自白を繰り返した。
「妻の実家で、異端者ギヨーム・オーティエを見たことは事実であるが、俺は婚約者への愛情のため、同家を訪問したに過ぎない」
「ワインと小麦を持参したが、異端者に供される可能性も自覚していた」

1321年11月2日、司教ジャック・フルニエとカルカソンヌから出張して来た審問官代理が尋問を行った。
ベルナール・クレルグは追加供述をしなかった。
パミエの、多くの被告や証人から情報を獲得していて、ベルナール・クレルグの有罪を確信していたが、保釈金を要求し、カトリック信仰を宣誓させ、贖罪を命じ、釈放した。

ベルナール・クレルグは監禁中に囚人仲間で自由に会話ができることを利用して、同囚に盛んに圧力をかけて、証言を左右させようとしていた。
(司教側が、その情報を掴んでいることを、ベルナール・クレルグは知らなかった)

1年後の1322年11月23日、ベルナール・クレルグをパミエに再召喚した。
繰り返し供述を求められた。
12月9日の審問では、先の証言の記録を読み聞かされた。
翌年の2月3日と、9日の尋問では、ベルナール・クレルグは何も答えなかった。
ベルナール・クレルグは、弁護人をつけられ、一昼夜の熟考を求められた。
翌日の審理で、ベルナール・クレルグは、自分に不利な証言をした証人の名を明かすよう求めた。
しかし、異端審問官は拒否した。
(その後の、報復の予防のためであり、異端審問が一貫として譲らなかった原則である)
ベルナール・クレルグは反論は一切しない旨を述べて教会の慈悲を願った。
異端審問側は、次回の出廷を3月12日に命じ、ベルナール・クレルグを村に帰した。
しかし、当日、ベルナール・クレルグは欠席した。
3月31日に、兄弟のレモン・クレルグが出頭して「本人病気」を届出た。
翌1324年8月7日に、ベルナール・クレルグが出廷した。
そこで、従来の供述の確認が命じられた後に、8月13日に判決が出た。
「狭き壁、パンと水」、ほぼ終身刑の投獄だった。

とにかく、長く執拗な審理期間である。
ベルナール・クレルグも懸命に、攪乱耕作を行うが、異端審問はとにかく、しつこい。
徹底した、完璧な手続きを積み重ね、一点の曇りもない結論に到達する方針の表れ、書類上でも念には念を入れるスタイルだったようだ。
ベルナール・クレルグにとっては、あからさまな拷問ではなかったものの、この長期間の審理は、それだけで拷問と同じ効果を発揮したようで、最後は抵抗する気力も失せてしまったようだ。



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