(53)ジャンヌ・ダルク

文字数 1,737文字

1429年3月、ロレーヌから、一人の若い娘ジャンヌ(20歳)がシノンにやって来た。
ジャンヌは、こともあろうに、王太子シャルルにお目にかかりたいと申し出た。

ジャンヌは、素晴らしく健康的だった。
肌は、やや栗色で、態度物腰はつつましく、女らしいやさしい声をしていた。

何より、非常に敬虔なジャンヌは、シャルルに語った。
「羊の番をしている間に、天の声を聞きました」
「大きな光の中に、大天使聖ミカエルと聖女カテリナと聖女マルガレ-タが現われたのです」
「そのお方たちは、この私に、王太子シャルル様にお会いしなさい、そして、オルレアンを救うようにと勧められました」

その神がかった言葉は、王太子シャルルに、そのまま受け入れられた。
王太子シャルル自身が、極めて信心ふかく、ジャンヌの語る「天から降った声」を素直に信じたのである。

その後、ジャンヌは男の甲冑を身に着け、フランス軍の指揮を委ねられ、先頭に立ってオルレアンの解放に成功した。
さらにシャルルに勧めて、ランスでの戴冠式を実現させ、正式にフランス王シャルル7世として即位させた。

100年戦争の中で、オルレアンの解放は、フランス国民にとっては象徴的な勝利であった。
また、王太子シャルルのランス大寺院での戴冠式は、聖アンプール(ランスにある聖油瓶で国王の抹油礼に用いる)の聖油が、全てのローマ・カトリック教会信者にとって、フランス新国王シャルル7世の権力の正統性を確証することになった。

しかし1430年、コンピエーニュで反国王的なブルゴーニュ派に捕らえられ、1万エキュでイングランド軍に売り渡された。
敗北の煮え湯を飲まされたイングランドは、ジャンヌ・ダルクを殺したくて仕方がなかった。
そして、ジャンヌを、誰もが憎む魔女的異端者に仕立て上げ、殺すことを画策した。

イングランドの摂政べドフォードと、その手先であるフランスのポーヴェ司教コーションは、イングランドびいきのパリ大学神学部(神学の世界最高権威)を味方に引き入れて、ジャンヌに対して、極めてイングランド側に一方的に有利な異端審問を開始したのである。

「大天使ミカエルには、頭髪があったのか?」
「お前は、大天使ミカエルと聖カトリーヌに接吻をしたのか?」
「お前が、お二人を抱擁した時に、温かさを感じたか?」
「お体のどの部分を抱いたか?上の方か下の方か?」

このような尋問が、「16回」続けられ、ジャンヌの「異端」が、確定した。

ジャンヌ・ダルクが生きながら焼き殺されたのは、1431年5月30日。
ルーアンの広場に示された、ジャンヌ・ダルクの異端の内容は、
「妖術者」「迷信者」「悪魔の祈祷師」等だった。

結果的には、イングランドの政治的な策略により、奇蹟的なフランス軍勝利を「妖術」の結果としたのであるが、異端者に魔女的要素を意識的に付加した初期の「魔女裁判」とも言える。

さて、その後の情勢である。
シャルル7世は態勢を整え、1435年にはブルゴーニュ公と講和してフランスの統一を回復した。
イングランドに反撃を加えて1453年には、イングランドの勢力を、ほぼフランスから駆逐して百年戦争を終結させた。
それによってジャンヌ・ダルクの復権を求める動きが強まり、1455年から復権裁判が行われ、翌年、異端判決は取り消されキリスト教徒として復権を果たした。

近代に入り、ジャンヌ・ダルクは次第にフランスの国民統合の象徴と見られるようになった。
特にフランスが1870年に普仏戦争に敗れた後には、国民的な救国の英雄として称揚されるようになり、「ジャンヌ列聖(カトリック教会の聖人として認められること)」を求める運動が起こった。
1897年にローマ教皇のもとで始まった審理により、まず1908年12月に福者と認定され、さらに第一次世界大戦終結後の1920年5月、ローマのサン・ピエトロ聖堂で列聖の式典が行われて聖人に列せられ「聖ジャンヌ・ダルク」となった。


さて、こんな動きを、当のジャンヌ・ダルクさんは、どう思っているのだろうか。
「政治的策略」により、「魔女」として惨く焼き殺され、また「政治的策略」により「聖女」に仕立て上げられる。

結局、「神の栄光」「神の正義」は、「人間の政治的策略」の「道具」に過ぎないのかもしれない。


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