第14話 やぶからスティック【5】吉田松陰1

文字数 901文字





 吉田松陰の伝記的なことに関しては、ウィキペディアを読めばわかるとは言え、それでは不親切かな、と思ったので、ここらで何回かにわけてざっくりと語りたい。


 吉田松陰は1830年(天保元年)8月4日生まれである(ちなみに筆者は8月5日生まれである)。萩藩士杉百合之助の次男。身分の低い武士の生まれだ。父・杉百合之助には弟が二人いて、上の弟の大助が吉田家を継ぐ。吉田家は毛利家の兵学の先生の家系である。代々、山鹿流兵学の先生であった。だが、大助は早世してしまう。松陰は名前を大次郎と変え、大助に代わって六才の若さで吉田家を継いだのである。
 杉百合之助の下の弟の文之進は、玉木家を継ぐ。大次郎こと松陰は兄の梅太郎とともに、文之進について勉強をすることになった。
 吉田家を継いだ大次郎は毛利藩の兵学の先生という身分になった。11才のとき、萩藩13代藩主毛利敬親という殿様の前に出て、兵学の講義をする。
 大次郎は殿様に、
「三戦は、先をとること、後の勝ちと、横を用うとの三つなり」
 と、すらすら山鹿流兵学を講義していく。殿様はそばにいた家臣に、
「吉田大次郎という少年は、今に立派な人物になるぞ。あの子はきっと国のために大いに働いてくれるだろう」
 と、言ったという。

 松陰は9才のときに、家学教授見習という名で、藩校である明倫館で、兵学を教えることになり、門人のひとたちの力を借りて講義することになり、同時に文之進たち多くの先生について兵学やほかの勉強もしていく。師範になったのは19才のときである。
 松陰は21才の8月、許しを受けて、九州に遊学に出る。初めて藩を離れ、長崎、平戸、熊本などの地を回る。また、世界の様子を書いた新しい本を読み、日本の国防の大切さを強く考えるようになるのである。
 熊本では宮部鼎蔵という心を許せる友達と知り合いになる。
 松陰は遊学中の勉強を忘れないように、詳しい日記を書く。
 この「日記を書くという勉強法」は、これからのち、一生を通じて続けられることになるのであった。



 ……では、いったん、ここで区切ることにしよう。この文章はたぶんにしてウィキより読みやすく書いたつもりだがどうだろうか。


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桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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