第18話 やぶからスティック【9】吉田松陰5

文字数 1,643文字





 吉田松陰が松下村塾で塾生たちと学問をしているうちにも、日本はさらに状勢がめまぐるしく変わっていく。松陰は、幕府に反対する者を次々と捕らえたり厳しく罰する幕府の老中、間部栓勝(まなべあきかつ)を倒すべく計画し、藩に申し出る。だが、逆に、
「吉田松陰の学問はひとのこころを惑わすものである」
 という理由をつけられ、1858年(安政5年)12月26日、それは再び野山獄に収監されることの理由となってしまった。
 松陰は間部を倒す計画したことが幕府に知れ、死刑を覚悟する。そして、考えた通り、幕府の命令で、江戸送りになることが決定した。

「誠をもって説けば正しい考えのわからぬことはあるまい。『至誠にして動かざるは未だこれあらざるなり』という言葉がある。自分は20年間も学問をしてきて、まだこのことが本当であるか知らない。今度こそは試してみようと考えている」
 ということを書いて、門人に渡す松陰。

 5月25日出発の前の晩。牢役人の厚意で一晩だけ松陰は杉家に帰ることになった。親類、友人、門人たちに囲まれ、一夜を語り明かす。五月雨降るなか、25日の朝、家族や門人と別れの杯を交わし、薄暗い玄関に立つ。

 かけまくも君が国だに安かれば
   身捨つるこそ(しず)本意也(ほんいなり)

 ……と。つまり、日本の国が安全に栄えれば自分の命は捨てていい、と自分の覚悟を語ったのであった。


 野山獄に帰ってから、護送役人に取り囲まれて江戸へ出発する松陰。萩の外れにある、〈涙松〉にさしかかると、護送役人はカゴをとめて戸を開けてくれたので、萩城下を眺め、一首の歌を詠む。

 かえらじと思い定めし旅なれば
   ひとしおぬるる涙松かな

 カゴは上げられ、静かに進んでいく。
 江戸に着くまで松陰は、歌を詠み、詩をつくった。その詩を吟ずる声を聴いて、その時々で出会った人々は松陰の歌や詩に感動したという。



 翌年7月9日。幕府から最初の取り調べを受ける。松陰は幕府の役人を悟らせるべく、ペリー来航以来の幕府の対策について順々と話す。そして、「間部老中をいさめる計画を立てた」と言ってしまう。
 松陰はただちに伝馬町(てんまちょう)の幕府の牢屋に入れられる。その後、二度の取り調べを受ける。続く16日、これまで述べたことを聞き取った調書の読み聞かせがあったが、そのなかには、言わなかったことまで書かれていて、その書き振りから死罪を感じ取る。
 そこで、父、叔父、兄の三人に宛てて別れの手紙を書く。
「わたしの学問修養が足りないため、至誠が力をあらわすことができなかった」
 と。そして、次に歌が続く。


 親思うこころにまさる親ごころ
   きょうの音ずれ何ときくらん



 門人たちにも遺書を書く。書き出しはこうである。

 身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも
   留め置かまし大和魂(やまとだましい)


 1859年(安政6年)10月27日、牢役人に呼び出された松陰はふところから紙を取り出し、

 此の程に思い定めし出で立ちは
   きょうきくこそ嬉しかりける

 と、絶筆の歌をしたためる。第四句の文字が一字足りないのに気付いたが牢役人に引き立てられ行かねばならなかったので「く」の横に「、」を打ったまま、筆を置いた。
 評定所の申し渡しは予想通り死刑だった。いつもの付き添いの役人に「長い間、ご苦労をかけました」と言葉をかける松陰。役人にせき立てられ潜り戸を出ると詩を吟じる。

 (われ)今国のために死す、死して君親に(そむ)かず。
 悠々たり天地の事、鑑照(かんしょう)明神(めいしん)にあり。

 正午近い頃、着物に着替え、刑場に引かれていく。「身はたとい……」の歌と辞世の詩「吾国のために死す……」を吟唱し、刑場に到着。服装を正し、鼻をかみ、座って目を閉じる。


 こうして吉田松陰は数え年30才で刑場の露と消えたのであった。



 ……と、まあ、これが吉田松陰の人生だ。参考文献は、僕が生まれた年の松陰の誕生日、小学生に配ったという、山口県教育委員会『松陰読本』に拠った。
 吉田松陰については、僕の拙い要約文ではあるが、理解出来たのではなかろうか。では、僕らは先へ進むことにしよう。


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登場人物紹介

桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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