第19話 やぶからスティック【10】桜田門外1

文字数 1,334文字




 さて、松陰亡きあとの話を。松下村塾の村塾四天王、特にそのなかの二人、高杉晋作と久坂玄瑞はつとに有名ではなかろうかと思うのだが、どうだろうか。有名だが、一体、彼らが何者でなにをしたのかうろ覚えのひとも多いはず。このあと少し彼らの話もしたいのだが、時系列で辿っていくとわけがわからなくなること請け合いだ。よって、まず、簡単なアウトラインを引きたい。
 
 1863年に起こった〈八・一八の政変〉というクーデターで三条実美たち七卿とともに京都を追われた長州藩勢力は、藩主の冤罪を訴えるため、京都の禁裏御所まで武装して行く。そこで起こった戦いを〈禁門の変〉、または〈蛤御門の変〉と呼ぶ。その禁門の変によって徳川幕府が始まって以来、一度もなかった京都を舞台にした内乱が初めて勃発した。京都内は〈どんどん焼け〉と呼ばれるほどの戦火に塗れた。しかしそこで、久坂玄瑞たち長州軍は敗れ、久坂は自刃する。
 その後、幕府によって〈第一次長州征伐〉が始まる。これは長州藩が降伏する。保守派が台頭していたのだ。
 で、幕府が〈第二次長州征伐〉をしようとしたとき、すでに長州藩ではクーデターが起こっており、藩是はがらりと変わっていた。高杉晋作が結成した奇兵隊、再び挙兵。最初は80人ほどの挙兵だったのが人数が膨らみ、高杉晋作の藩内のクーデターは成功、藩是は変わり、そのうえ、坂本龍馬が中岡慎太郎とともに現れ、第一次のときに長州と敵対していた薩摩藩と手を組ませたのである。と、いうことで形勢は逆転する。
 つまり、吉田松陰のもとで学んだなかでも特に秀でいた久坂玄瑞と高杉晋作、そのうち久坂は死に、その弔い合戦ではないが、朝敵との汚名を着せられていたところを、高杉晋作はその汚名を返上させたのだ。

 山口県では、長州征伐を〈四境戦争〉と呼ぶ。また、その後の会津戦争が薩長史観で特にクローズアップされるのは、禁門の変で、蛤御門を守護していたのは会津藩であり、会津藩は幕府の諸藩のなかでもエリート中のエリートであったから、という意味合いもあるだろう。
 禁門の変で幕府側を指揮し、〈布陣を敷いた〉のは、〈一橋慶喜〉であり、その布陣は見事なものであった。だが、幕府のお偉いさん方のいざこざで、慶喜はその後、活躍出来なくされる。そのいざこざで、幕府は長州に対してもぐだぐだしてしまい、結果、倒幕は果たされることになる。

 一橋慶喜と言えば、最後の将軍であり、水戸藩主、徳川斉昭の子供である。だが、〈英明〉であった慶喜を取り巻く人生も、容易ではなかった。そこにはまず徳川家の将軍の継嗣問題がある。継嗣問題で勝利した側は日米和親条約を結び、その後、井伊直弼は「将軍は特別英明である必要はない。現将軍に最も血筋が近いことこそが必須条件であり、これが我が国の美風」と言い、「一橋派」を一掃、次いで〈安政の大獄〉を発動するのだ。


 ……と、まあ、そんなわけで、そこらへんの話も、詳しく見ていこう。何故この『修羅街挽歌』がこんなことになっているのか自分でも謎だが、ついでなので、僕と一緒に軽くお勉強をしようよ! 歴史に詳しいひとは、僕の稚拙な文章のなかから、あらためて考えて、これからの日本のことにでも思いを巡らしてくれると嬉しい。


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桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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