第29話 やぶからスティック【20】在りし日の雨2

文字数 1,586文字

二十




 ふぅー、と息を吐く僕。隣に座って足湯につかっている桐乃さんも、若干熱めのお湯で頬が上気している。
 屋根のあるこの足湯の井上公園と、公園の脇を通る道路を眺めると、パラパラと雨が降っては止んで、を繰り返している。
「在りし日の雨……なんつって」
 独りごちて笑む僕。中原中也と言えば詩集『山羊の歌』と『在りし日の歌』だ。それをもじってみて、ひとり喜ぶ僕の顔を、不思議そうにのぞき込む桐乃さん。
 僕は咳払いをひとつして。
「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」
 僕が暗唱するとくすくす笑う桐乃さんは、
「なんですかぁ、それ」
 と、僕に尋ねる。
「中原中也の有名な詩のオノマトペ。『サーカス』って詩の一節だよ」
「初めて知りました、面白いですね」
「面白いでしょ」
「るるせさんは詩をお書きになっていた頃がおありなのでしょうか」
「あるよ、遠い昔、ね」
「遠い昔、なのですか」
「遠い昔の話さ。中原中也の詩集を、高校生の頃、古本屋で見つけて買ってね、カバーがぶっ壊れたよ、それほど読み込んだ。今も家にそのカバーが壊れた詩集、あるよ。それで、大人になってから中原中也全詩集が発売してね、それも買って読んだよ。全詩集が発売した頃はもう、詩を書くのは辞めちゃっていたけどね」

 限もなき空の真下の木の下に伏して胸苦し何が胸苦しきか
 俄かにも曇りし夏の大空の下に木の葉は静かにゆらぐ

 ……なんて、中也がその詩の出発点に書いていた短歌から抜粋したくなる僕である。
「僕は、詩人にはなれなかったねぇ」
「なれなかったのですか」
「現代詩業界に対する僕の呪詛を聞くかい。いや、やめておこう」
 中也は現代詩ではなく、文学史的には近代詩に位置する。そして、ダダからその活動を始めたのでもあったな。それは、この日にやっていた〈山羊の歌〉展でも日本のダダ詩の伝道師であった高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』が大々的にフィーチュアされていた通りであり。
 そして、また。次の展覧会は、僕の住む茨城県のお隣、福島県いわき市の詩人、草野心平と中原中也を結ぶ展覧会であり、草野心平記念文学館は、僕が今働いているミュージアムと関係性がある。不思議なものだぜ、すべてが今、つながっていくのを感じる。
「桐乃さん、どうだった、中原中也は。中也の詩を詠んでみるといいよ。桐乃さんは僕が見るに、とても純文学だから、中也は読めばきっと力になるよ」
「また今度ここへ来て、そのときにここで詩集を買うつもりです」
「おう、そうするといいよ!」
「わたし、雨女なんですよ。今日の予報も、曇りときどき雨」
「その目はきっと曇ってないし、雨でもないよ」
「へ?」
「いや、なんでもない。独り言。僕は作家では太宰治が好きだったんだ。筑摩文庫版の全集も買って、読破しただけでなく全巻、何度も読み返したよ」
「中原中也がライバル視していたという、太宰治ですね」
「僕は太宰治の小説が上手いと思ったことは一度もない」
「そうなのですか。じゃあ、何故何度も読み返しているのですか」
「太宰の文章は下手なんだけど、〈読ませる〉んだよなぁ」
「あはは、それって〈文章が上手い〉ってことじゃないですかぁ」
「そうなんだよね。下手だけどこれほどないまでに上手い。最高の〈ヘタウマ〉が、僕のなかでの太宰治さ。太宰を理解しているのはこの世で僕だけだ、なんて錯覚すらする」
「もう、心酔ってレベルではないですかぁ」
「太宰も読んでみて。あいつ、いつも同じことばかり書くんだよ! でも、最高に読ませてしまうんだなぁ」
「あはは。この足湯にもいる、湯田温泉駅名物の白狐、ゆう太くんもるるせさんを笑ってますよー」
「だよねー」
「ですよねー」
「こういう会話をしているこの時間こそ、贅沢な時間、と呼ぶ」
「やぶからスティックになにを言っているのですか、るるせさぁーん!」

 こんな感じで、贅沢な時間は、パラパラ降る雨のなか、続いていく。


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登場人物紹介

桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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