第17話 やぶからスティック【8】吉田松陰4

文字数 1,720文字





 野山獄には松陰のほかに11人の囚人がいた。50年近く獄生活をしている76才の老人をはじめ、一番若くても36才だったので、26才の松陰はもっとも若かった。囚人たちは、はじめのうちは松陰に近づかなかった。しかし、自分たちと違い、毎日熱心に本を読んだり書き物をするのを観ているうちに、誰が言うでもなく、
「なにかわたしたちに話をしてくださいませんか」
 と、頼んでくるようになった。
 囚人たちは長い獄生活のうちに希望を失っていた。松陰は生きる希望をこのひとたちに持たせたいと考えた。そこで、〈孟子〉の言葉を借りて、人間が生きていくことの意味や人間として守らねばならない道の大切さなどを話した。獄中にいても良心を失わず、明るく生きていけばしあわせであるということも話した。
 また、囚人たちと話し合って、習字の上手なひとは習字を教え、俳句の上手なひとはみんなに俳句を教えるようにした。松陰も仲間に入ってみんなと一緒に勉強していく。
 囚人や獄の気分が変わっていく様子に牢役人も驚き、夜でも講義が出来るようにあかりをつけることを許したり、講義があるときは牢役人自身も廊下に座って松陰の話を熱心に聞くことにした。

「こんな立派なひとがいつまでも獄に繋がれているのはいけないことだ」
 という声があちこちから出てきて、藩も松陰を獄から出すことにした。安政2年の年の瀬が迫る頃だった。
 野山獄の生活は、吉田松陰にとって、今から始まる松下村塾での教育の土台となる出来事だった。


 杉家へ戻るも謹慎の身の松陰。父、兄、親類の久保五郎左衛門の3人は、野山獄での〈孟子〉の残りを完成させることを思い立ち、松陰に講義を続けるように頼んだ。父たちが講義を聴くというのだ。安政3年、吉田松陰は27才になっていた。これからの二年半が、松陰の一生で一番平和な時期である。三月になって、講義を聴く者は増え、狭い部屋は活気に溢れる。6月、〈孟子〉の講義が終わる。この講義が終わる頃には教えを受けに来る青年たちがさらに増えていく。「また別の本を!」という希望を入れて〈武教全書〉の講義も始める。講義は月6回、さらに歴史、経書、農業、世界地理の講義も続いた。



 松下村塾は、松陰の叔父、玉木文之進が松本村に塾を開き、地名を取ったのが始まりで、松陰が13才のときだった。文之進が忙しくなって、代わりに親類の久保五郎左衛門が家塾に松下村塾の名前を付けた。吉田松陰が野山獄から戻り、幽囚室にいるようになって、「学問のある松陰があのまま閉じこめられているのは惜しい」と、言い出しやがて講義が開かれ、松陰の指導による松下村塾が始まるのは前述した通りである。
 教えを受けに来る者が増えていき、屋敷のうちの小屋を修理して、八畳一間の部屋をつくり、門人の数もさらに多くなり、塾生の控え室も一棟建てることになった。萩の町から古家を買ってきて、松陰と塾生が助け合って天井を張り、屋根を葺き、十畳半の建て増しをした。それが今残っている松下村塾の建物である。

 松下村塾での勉強は、ただ物事を知ったり理屈を言うだけでなく、何事も実行していかねばならないことを学ぶことだった。
「学者になるのではないよ。ひとは学んだことをどう実行するかが大切だよ」
 と、松陰は塾生たちに諭す。

 松陰自身も野山獄の頃にもまして勉強をした。講義が終わったあと、読みかけの本を読んだり、書き物をして眠くなれば布団は敷かずにそのまま机に突っ伏して眠り、また起きて読書や書き物をした。門人が増えるにつれて、藩も松陰に家学を教えることを認めるようになる。
 世界の様子に目を開き、日本の進む道も教えた。
 松下村塾は武士や町人の区別なく、勉強しようとするひとは誰でも塾に入れた。門人のなかには塾のなかに寝泊まりして勉強する者もいた。
 吉田松陰が松下村塾で教えたのはわずか二年半だったが、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田栄太郎、入江杉蔵、伊藤博文などを輩出することになる。



 ……と、いうことで、もう1話ほど、この伝記的な文章を続けたい。長くて済まないが、この国のこれからを考えるのにも役立つかな、と思って。今は世界的に見て、また転換点が来ているように、僕は思うのだ。


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登場人物紹介

桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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