第22話 やぶからスティック【13】桜田門外4
文字数 972文字
十三
水戸学は水戸光圀が紀伝体歴史書『大日本史』の編纂事業をするうちに生まれて発展した思想である。日本の歴史を紀伝体で書くということは、『大日本史』は尊王の書だということでもあるが、一度水戸藩が財政難で『大日本史』編纂が休止状態だったところを再開させた人物、〈立原翠軒 〉は、儒学者である〈荻生徂徠 〉の門閥の学問である〈徂徠学〉を叩き込まれていたので、儒学・朱子学的要素が高い。ちなみに荻生徂徠とは落語の『徂徠豆腐』に出てくる学者の、あの徂徠のことである。〈儒学〉ということは、政権である幕府のこともたてるということでもあろう。
話はずっと先になって、〈藤田幽谷〉は外敵夷狄に対する憂慮を抱いていたが攘夷思想の大著は残さなかった。だが、藤田幽谷の弟子、〈会沢正志斎〉は『新論』という本を残した。徂徠学が中国古代王朝を祭祀国家と捉えたのを読み替えて、日本は天皇を中心とする神道によって、欧米が強い理由として、水戸がかき集めた対外的資料から研究してきた結果出たふたつの要素、すなわち武器の優秀性とキリスト教による民心の一致、それを果たすことが出来るとした。
その後、〈藤田東湖〉が水戸学にいよいよ〈国学〉を導入することになる。こうして〈尊攘〉運動の中心思想となるのである。
が、そこだけ読んでもちんぷんかんぷんだと思う。
少なくとも前提知識がなかったら僕だったらわからなかったと思う。
水戸学は尊王の書を編纂する事業で始まったが、重要なのは、そこに〈儒学(徂徠学)〉を取り入れ、その後〈国学〉を取り入れたという、そのふたつである。このふたつが反目せず、ハイブリットセオリーとなったのが〈後期水戸学〉の大きな特徴だ。
話を戻すと、前提として当時の〈儒学〉と〈国学〉とはどんなものだったかがわからないと、全くわからない、ということだ。
なので、一度このふたつの学問の話をして、それから最前出てきた水戸学の学者を年代順に配置し直して、すっきりとしたかたちにしよう。そのときには徳川斉昭も出てくるであろう。
なぜならば、〈水戸学は実践の学問〉だからである。そりゃ殿様の行ったことも語る必要もあるだろう。
〈体系なき体系〉と称されることの多い水戸学だが、実践とともにあるフレキシブルな思想が水戸学なのだ。
では、まずは〈儒学〉と〈国学〉の説明からだ。先を急ごう。
水戸学は水戸光圀が紀伝体歴史書『大日本史』の編纂事業をするうちに生まれて発展した思想である。日本の歴史を紀伝体で書くということは、『大日本史』は尊王の書だということでもあるが、一度水戸藩が財政難で『大日本史』編纂が休止状態だったところを再開させた人物、〈
話はずっと先になって、〈藤田幽谷〉は外敵夷狄に対する憂慮を抱いていたが攘夷思想の大著は残さなかった。だが、藤田幽谷の弟子、〈会沢正志斎〉は『新論』という本を残した。徂徠学が中国古代王朝を祭祀国家と捉えたのを読み替えて、日本は天皇を中心とする神道によって、欧米が強い理由として、水戸がかき集めた対外的資料から研究してきた結果出たふたつの要素、すなわち武器の優秀性とキリスト教による民心の一致、それを果たすことが出来るとした。
その後、〈藤田東湖〉が水戸学にいよいよ〈国学〉を導入することになる。こうして〈尊攘〉運動の中心思想となるのである。
が、そこだけ読んでもちんぷんかんぷんだと思う。
少なくとも前提知識がなかったら僕だったらわからなかったと思う。
水戸学は尊王の書を編纂する事業で始まったが、重要なのは、そこに〈儒学(徂徠学)〉を取り入れ、その後〈国学〉を取り入れたという、そのふたつである。このふたつが反目せず、ハイブリットセオリーとなったのが〈後期水戸学〉の大きな特徴だ。
話を戻すと、前提として当時の〈儒学〉と〈国学〉とはどんなものだったかがわからないと、全くわからない、ということだ。
なので、一度このふたつの学問の話をして、それから最前出てきた水戸学の学者を年代順に配置し直して、すっきりとしたかたちにしよう。そのときには徳川斉昭も出てくるであろう。
なぜならば、〈水戸学は実践の学問〉だからである。そりゃ殿様の行ったことも語る必要もあるだろう。
〈体系なき体系〉と称されることの多い水戸学だが、実践とともにあるフレキシブルな思想が水戸学なのだ。
では、まずは〈儒学〉と〈国学〉の説明からだ。先を急ごう。