第15話 やぶからスティック【6】吉田松陰2
文字数 1,052文字
六
120日余りの九州への遊学は、吉田松陰の考え方を一変させ、時代の動きを深く見つめるようにさせた。
翌年の3月。吉田松陰は殿様のおともをして、江戸に留学することになった。江戸で松陰は多くの先生について勉強をしたが、なかでも兵学者の佐久間象山の「新しい考え」には特に強くこころを惹かれたのであった。
一方、熊本で会った宮部鼎蔵を始め、多くの友達とも交際し、勉強に励む。
その頃ロシアの船が北方の海に現れたことを聞き、北方海岸の防備が気がかりになり、宮部鼎蔵とともに、松陰は東北遊歴の計画を立てる。藩に遊歴の願い出をして許可を得たが、手違いで通行手形が遅れたため、吉田松陰は通行手形を持たないまま、12月14日、江戸を出発する。
途中、水戸に立ち寄った吉田松陰は水戸学を学び、日本の歴史の大切さを知ることとなる。
深い雪のなか、会津若松、新潟、佐渡を経て日本海沿いに北上、本州の北端、竜飛崎の近くまで到達したのであった。
津軽海峡をへだて、松前の連山を目の前に、北方の守りの大切さを強く感じる松陰。
こうして140日の旅を終え、4月5日、江戸に帰り、藩の掟を破った罪を覚悟。国元への帰国を命じられたので、杉家で謹慎して藩の処分を待つ。12月、松陰は亡命の罪で藩士の身分を奪われ、明倫館の先生もやめることとなったのであった。
このことにより、今までのように藩外で勉強することができなくなってしまう。しかし殿様は、松陰がそうなったこと残念に思い、勉強が出来るようにしてやりたいと思っていた。
1853年(嘉永6年)6月3日。ペリーがアメリカの軍艦4隻を率いて東京湾の入り口、浦賀にやってきた。
松陰は許可を得て再び江戸へ出たばかりのとき、この大事件を聞き驚き、さっそく佐久間象山などと黒船の様子を詳しく観察する。
ペリーはアメリカ大統領の国書を幕府に手渡し、開国を求めて、来年また日本に来て返事を聞くということを告げて去っていく。
佐久間象山は早くから西洋砲術を研究していたこともあり、世界に新しい時代が来ることを感じ取っていた。佐久間象山は「日本も松陰のような優れた青年を西洋に送り、実際に外国の様子を見せて勉強させなければ、世界の国々に立ち後れてしまう」と思っていた。同じような考えを持つ者は多くいたが、そのときはとうとう実現しなかった。
佐久間象山の考えを聞いた松陰は、その見通しに敬服し、自分に寄せられた期待に感激する。
……そして、その機会が来るのを今か今かと、吉田松陰は待ちかまえていたのであった。
120日余りの九州への遊学は、吉田松陰の考え方を一変させ、時代の動きを深く見つめるようにさせた。
翌年の3月。吉田松陰は殿様のおともをして、江戸に留学することになった。江戸で松陰は多くの先生について勉強をしたが、なかでも兵学者の佐久間象山の「新しい考え」には特に強くこころを惹かれたのであった。
一方、熊本で会った宮部鼎蔵を始め、多くの友達とも交際し、勉強に励む。
その頃ロシアの船が北方の海に現れたことを聞き、北方海岸の防備が気がかりになり、宮部鼎蔵とともに、松陰は東北遊歴の計画を立てる。藩に遊歴の願い出をして許可を得たが、手違いで通行手形が遅れたため、吉田松陰は通行手形を持たないまま、12月14日、江戸を出発する。
途中、水戸に立ち寄った吉田松陰は水戸学を学び、日本の歴史の大切さを知ることとなる。
深い雪のなか、会津若松、新潟、佐渡を経て日本海沿いに北上、本州の北端、竜飛崎の近くまで到達したのであった。
津軽海峡をへだて、松前の連山を目の前に、北方の守りの大切さを強く感じる松陰。
こうして140日の旅を終え、4月5日、江戸に帰り、藩の掟を破った罪を覚悟。国元への帰国を命じられたので、杉家で謹慎して藩の処分を待つ。12月、松陰は亡命の罪で藩士の身分を奪われ、明倫館の先生もやめることとなったのであった。
このことにより、今までのように藩外で勉強することができなくなってしまう。しかし殿様は、松陰がそうなったこと残念に思い、勉強が出来るようにしてやりたいと思っていた。
1853年(嘉永6年)6月3日。ペリーがアメリカの軍艦4隻を率いて東京湾の入り口、浦賀にやってきた。
松陰は許可を得て再び江戸へ出たばかりのとき、この大事件を聞き驚き、さっそく佐久間象山などと黒船の様子を詳しく観察する。
ペリーはアメリカ大統領の国書を幕府に手渡し、開国を求めて、来年また日本に来て返事を聞くということを告げて去っていく。
佐久間象山は早くから西洋砲術を研究していたこともあり、世界に新しい時代が来ることを感じ取っていた。佐久間象山は「日本も松陰のような優れた青年を西洋に送り、実際に外国の様子を見せて勉強させなければ、世界の国々に立ち後れてしまう」と思っていた。同じような考えを持つ者は多くいたが、そのときはとうとう実現しなかった。
佐久間象山の考えを聞いた松陰は、その見通しに敬服し、自分に寄せられた期待に感激する。
……そして、その機会が来るのを今か今かと、吉田松陰は待ちかまえていたのであった。