第13話 やぶからスティック【4】明倫館補遺2

文字数 1,234文字





 おさらいすると、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾が萩市にある産業革命遺産である。萩反射炉はたたら製鉄の技法と同じように木炭を燃料に大砲をつくろうとして失敗し、恵美須ヶ鼻造船所は木造帆船の軍艦をつくり、その木材の「繋ぎ」の部分の鉄をつくるのにたたらの技術を使った。もちろん蒸気機関は備えていないので外国船に敵わない。大板山たたら製鉄遺跡が重要なのは、萩反射炉と恵美須ヶ鼻造船所でつくったりつくろうとしたものに、古くからの製鉄技術である「たたら」の技法を使い、それによって欧米列強に立ち向かおうとしたことによる。
 トライ&エラーとは言え、ここまでの話は全部失敗であり、これだけでは失敗の歴史だ。
 幕府は、長州藩の場合、文久2年に、高杉晋作を上海(しゃんはい)に送る。それに先立つ安政元年、吉田松陰は佐久間象山の意見を取り入れたこともあり、ペリーの船に乗り込み、密航を企てた。だが、失敗した。ちなみに失敗したとは言えども、ペリーは幕府に吉田松陰を処刑しないように、と取り計らった。将来有望だ、と思ったからだ。で、その吉田松陰が後に二年半ほどやっていた私塾が、今伝わる松下村塾である。少々事情は複雑で、松陰の親類がやっていた私塾が松下村塾であり、幽囚の身となった吉田松陰が幽囚された座敷で講義を行ったのが、今、普通に伝わっている松下村塾のイメージである。吉田松陰がいなくなったあとも、塾自体はしばらく続いた。二年半の間の吉田松陰の開いていた私塾である松下村塾には、その間だけで全部で90人以上の門下がいた。
 その吉田松陰が直接教えていた門下のなかに、のちに伊藤博文という名前になる塾生がいた。彼が〈長州ファイブ〉のひとりであり、半年の密航ののち帰国、初代内閣総理大臣となる。
 と、いうことは、である。
 この産業革命遺産のなかで、「産業」だと言っているのに一番産業と関係なさそうな「松下村塾」こそがトライ&エラーで失敗していたところに、〈成功〉へと〈導いた人物〉が直截に門下に教えていた〈場所〉であり、萩市の「産業革命遺産」の要、と言っていいとは言えないだろうか。それを抜きにしたって、吉田松陰の思想が今の日本をつくったと言っても過言ではなく、どう考えたって日本の最強の文化遺産のひとつだと考えていい。松下村塾は、この国にとって超重要な場所である。

 この『修羅街挽歌 山口県るるせトリップ』の『第3話 明倫館』を語り直しすると、そういうことになるのだった。

 では、長州ファイブとはなにか、また、吉田松陰とは誰か。また、この旅行記の話者である著者・成瀬川るるせという茨城県からの使者であり作家である存在にとっての、彼らはどういう立ち位置にあり、どういう関係性があるのか。
 それらを、急ぎ足ではなく、書いている時々で思い出した順に語っていきたいと思う。横道にも逸れていくが、まあ、論文でもないし、ある程度は好きに書いていこうと考えている。
 では、まて次回!


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登場人物紹介

桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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