第21話 やぶからスティック【12】桜田門外3

文字数 1,186文字

十二



 茨城県で徳川斉昭と言えば〈列公〉と呼ばれ、徳川光圀の次にネームバリューがある殿様である。将軍の継嗣問題を語るとき、斉昭の子供、一橋慶喜が優れた人材ということで将軍に擁立しようと〈一橋派〉が出来たのと対立するように〈南紀派〉がいて、南紀派が勝ち、将軍には徳川慶福(とくがわよしとみ)が家茂という名前になって、なることになった。
 徳川慶喜、つまり一橋慶喜の父、徳川斉昭は、いろんな意味で幕府から睨まれていたのが一橋派の、負けた理由の大きなファクタであるのは否めない。特に政治思想とは関係なく、斉昭は〈女好き〉であったがゆえに、〈大奥〉からめちゃくちゃ嫌われていたのである。そこで、薩摩藩の島津斉彬が自分の娘〈篤姫〉を、そのときの将軍である徳川家定の御台所にして将軍の意志を直接動かそうとするも失敗。むしろ御台所の篤姫の方が取り込まれてしまった。ここぞとばかりに南紀派はかねてから徳川斉昭を嫌っていたことで有名な井伊直弼を〈大老〉に就任させる。
 その直後、大老・井伊直弼は無勅許による日米修好通商条約を決定。「無勅許調印」であることに怒って登城した徳川斉昭を謹慎処分にする。
 一橋派を一掃したことによって、紀伊慶福は第十四代将軍、徳川家茂となり、井伊直弼は〈安政の大獄〉を始めることになるのであった。


 キーパーソンは徳川斉昭である。彼はそもそもなんなのか。だいたい水戸藩と言えば、徳川御三家とは言うけれども、その石高は発表されていたよりも実際はずっと少ない、貧乏な藩であった。そこの殿様が実は幕末のキーパーソンの一人だったことは、幕末の志士たちの思想的に、またその思想の実践においても、重要なことなのである。……が、それはよっぽど好きなひとじゃないと知らないか、あたまのなかから抜けていって覚えないような事柄だし、ざっくりと話そう。

 簡単に言うと徳川斉昭は〈水戸学の体現者〉であったのだ。それが重要だった。睨まれていたのは女好きだからだけではないのだ。水戸学とかいうのを実践しようとする〈アブナイ奴〉だったのだ。

 つまりはその一点に尽きるが、さて、その〈水戸学〉とやらはそんなに幕末にとって重要なのか。
 はい、重要です!
 おっと、自分で質問して即座に自分で答えてしまった。
 僕の書く小説などでも、重要な概念であるその〈水戸学〉の話を、最前言ったように、ざっくりとだがここで語ろう。それがわかると、クリアになる。吉田松陰が〈後期水戸学〉の学者、会沢正志斎に水戸で何日か会っていて、それが松陰の思想に深い影響を及ぼした、その内容も、水戸学をざっくり語れば、幕末にとってどれだけ水戸学が影響を及ぼしたか、そして第二次世界大戦後、ジェネラルヘッドクォーター(GHQ)が水戸学を焚書扱いした〈危険な思想〉であったこともわかるだろう。


 前置きが長くなった。水戸学の流れを、ざっくり説明することにしようか。


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登場人物紹介

桐乃桐子:孤高の作家

成瀬川るるせ:旅人

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