部室で秋人と恋々子は時間を潰していた。
永久莉や国光とは授業時間が1時間は違うので、それはよくあることだった。
そして、恋々子が喧しいことも多々あること。
ひとりでゲームをしているだけなのに、とにかく煩い。
ココ先輩、相談したいことがあるんですけどいいすか?
ちょっとクラスでディベートをやったんですけど、上手くいかなくて
いえ、お遊びです。ディベート部に入っているんなら、やってみろって話になりまして。
そういえば、一芸入試組は授業でやるんですっけ?
うん。ウチは実験的に海外の授業スタイルを色々とやらされるから。
理数系を男女で分けて教えたり、タブレットを積極的に使ったり、教科書やノートを使わないってのもあったかな
楽しいかどうかはともかく常に煩いよ。
だから、内気で物静かなコには地獄かも。
まぁ、ほとんどいないけど
一芸とはいうものの、結局はそれのみで推薦を取れないレベル。
結果、必然的に一般入試を突破する学力――もしくは、やる気のない者が多くなる。
それでいて、一芸で受かる自信に満ち溢れているとなれば、その性格は推してしかるべき。
あー、それは無理だね。
秋人が全体を支配しない限り、纏まるはずがない
いやでも、公式だとひとりで延々と喋らないといけないじゃないですか?
恋々子はそう言って、印刷されたフォーマットを提示する。
(懐かしい。入部当初は、この順番でやってたんだよなぁ)
一応は
一応じゃダメ。
自分や相手がしているのが立論なのか質疑なのか、それとも反芻なのか。
その点を理解しないで好き勝手に喋ったら、空中分解するに決まってるじゃない
特に、質疑と反芻が楽で容易だってこと。
そればかりに徹底すると、ディベートにならない点は注意しておかないと
理解して無視するのと、最初から無視するのでは意味合いが違います。
それに、わたしにはトワがいるもん
あー、そういえばそうですね
(でも、偉そうに言うことじゃないよな)
永久莉はよくバランスを取ってくれている。状況を見て話題を切り上げたり、立論を挟んだりして。
神香原ルールは自由に思えるけど、あくまで土台にあるのは公式のフォーマットだから。わたしだって、発言が公平になるよう遠慮したりしてるでしょ?
茶化しながら、秋人は理解していた。
先輩たちは喋り過ぎないよう、自分たちは喋り足りないよう気を付けていると。
また堂々巡りになりそうな時は避けるし、明らかに優劣が下った際も切り上げる。
勝ち負けを争いはするものの、争点はあくまで『説得力』。
ゆえに、相手を徹底的に叩き潰す真似はしなかった。
(論争とか論破とか言ってはしゃいでいた時点で、あいつらとディベートするのは無理だったな)
秋人は普通に返して、部活動が始まる。
本日の論題は趣味はこだわるべきか否か。
コイントスの結果、永久莉と秋人がこだわる派。
(でも、ココ先輩にやる気をだされると不安しか覚えない)
そもそも、日本人は趣味を持たなければならない、という強迫観念が強いと言われています
お言葉に甘えて――やる気に満ち溢れた恋々子があまりに怖くて、国光は先陣を切った。
総じて、趣味に意味や価値を見出す傾向も強く――
結果として、ストレスになっている人が多く存在するのではないでしょうか?
正確には、趣味の意味をはき違えているのだと思います。
元来、好きなことや暇な時間にする習慣を趣味とは呼びません
向上心を持って、長期的に取り組む行為。
すなわち、『こだわり』を持つことが本当の趣味なのですよ!
が、それはそれは空回りして激しくぶっ飛んでいった。
染谷さんの仰る通り、日本人は趣味の意味をはき違えているかもしれません
えーと、そもそも休日の概念自体が日本にはありませんでした。それに近しいモノは正月と祭りの日であって……
その為、日本においては短い空き時間に行うこと。
ひいては娯楽が趣味と呼ばれるようになりました
一方、西洋では休日という長い時間を費やす行為。
また、ひとりで取り組むことが趣味とされています
おそらくですが、誰かと共有するのは『遊び』になるのでしょう。
もしくは、スポーツといった優劣を争う『競技』。
他にもフランスのように、私たちが認識している『趣味』という言葉がない国もあります
つまり、一言に趣味といっても人によって捉え方が違うってことです!
でも、それだど議論が難しいから、ここでは娯楽や好んですることに定義しましょう
(ひゃーん、あっぶなーい。やっぱトワ大っ好き。そして、さすがわたし。見事な軌道修正。惚れ惚れしちゃう♪)
一方、恋々子に反省の文字はない。
それどころか、フォローしてくれた永久莉に対する感謝よりも自画自賛のほうが多い有り様。
スマートフォンの普及により、多くの人がSNSを始めとしたネットに時間を費やす傾向が強くなりました
仕切り直し。
永久莉が何事もなかったかのように切り出す。
とある調査では、日本人の半数以上が既にネット依存。
もしくはその予備軍だと囁かれているそうです
だからこそ、趣味にはこだわるべきかと。
ネットに限りませんが、惰性で長時間――受動的に情報を受け取る行為は、脳の老化や萎縮を招く危険が高いというデータがあります
揚げ足を取りやすい答えに違和感を覚えながらも、国光は返した。
それは少しばかり、古い考えですね。
まだ、ネットが身近ではなかった時代の価値観だと私は思います
もはや、探さなくてもネットには情報が溢れています。
また多くの人は決まったサイトにしかアクセスせず、そこからリンクを辿っていくことが習慣化されている――いや、そう仕向けられているのです
昨今のWEBはサイト導線――閲覧者の視線や思考を誘導する作りになっています。
その際の脳波を観測したところ、ぼーっとテレビを観ている時と同じ波長だったそうです
前もって決めていたわけではないが、秋人は意気揚々と喋り続ける。
つまり、錯覚なんです。
それも脳すら騙せない、心理上の思い込み。その状態が続くと当然、脳は老化し萎縮します
好きでやっているのではなく、楽でやっているからでしょうね。
そんな状態を脱するのに必要なのが好奇心――強いこだわりだと、私たちは思います
見事なコンビネーションによる立論。
永久莉と秋人は満足げに微笑んで、質疑なり反芻を受け入れる姿勢を見せる。
趣味という広い枠組みを一気に縮められ、国光は追いつめられる。
仰ることはわかりますが、それは荒療治という名の極論じゃないかな?
こだわりが強すぎた場合も、同じように脳の一部しか使わず萎縮――というか、浸食を招きます。
また社会性に欠け、対人関係も上手くいかない
実際、趣味人という言葉はあまりいい意味で使われません
(この人は反射だけで生きているのか? こういうのに対応できるくせして、どうして普段はああなのか……)
それに浅く広く――
様々な分野に手を出し楽しむことが、そちらが仰った問題の根本的な解決になるのではないでしょうか?
趣味はコミュニケーションのツールや場所として活用するのが、もっとも健康的だと思います。
趣味に限らず、一つに拘泥するとそれがストレスの原因になる時が必ずきますので――
とりあえず、話題を広げなければ――と、些か強引に国光は流れを打ち切る。
趣味にこだわることは良いことだとは思います。
ですが、趣味の域に留まらない場合が非常に多い。
特にネット上では、目的と手段が入れ替わっている節が見受けられます
……
(国光の奴、今日はココ先輩に振り回されてんな。秒で矛盾してるぞ)
その行為が目的だったはずなのに、付属品に酔うパターンですね
そして、快感や喜びもまた一種のストレスなんです。
だから、そういったモノを趣味に求めると絶対に具合が悪くなる
事実、趣味に多大な価値や成果を求める人って他に誇れるモノがないと思うの
……
(今日のココは駄目ね。頭のネジはいつものことだとしても、色々と緩すぎる)
勉強でもスポーツでも特技でも友達でもなんだっていい。
何かを成し遂げ、かけがえのないモノを手に入れた経験がある人は、他者との優劣を競う材料に趣味を使ったりしません
それこそ価値観の違いですね。
趣味を高尚なモノ。もしくは、無邪気なモノであって欲しいという願望による考えではないでしょうか?
先ほど、趣味を手段――コミュニケーションの場やツールとして活用すべきだと仰っていましたよね?
……すいません。そうでした。
僕が言いだしたことでしたね
焦るあまり、今度は国光が自爆。
しかも、恋々子がすかさず巻き込まれに行ったので派手に爆発してしまった。
(やっぱココ先輩が張り切るとろくなことにならない。というか僕ではフォローしきれません)
ディベートは言葉を使う。
それも理性によって操るので、感情が優先してしまうとたちまち加減が効かなくなるものだった。