(2)
文字数 3,708文字
午後の授業は1限だけで終わり、結局今日は授業を受けずに1日が終わってしまった。
掃除の時間、ぼうっと窓の外を眺める。
窓の向こうには海が見えた。
夏の快晴に青い海がよく映える。だけどなぜだか自分が知っている海とは、どこか違う気がした。毎日のように見ていた海なのに。
バイトしている水族館も海に隣接しているし、学校帰りに海に寄ることもしばしばあった。“こっち”の海の方が、あたしにはずっと馴染んだもののはずなのに――
「まーた海みてんの?」
声をかけられてはっと振り向くと、そこには呆れたように笑う早帆が居た。箒を持ったまま海を眺める自分に「ほらはやく掃いて」と屈んでちりとりの口を向ける。あたしは慌てて隅に寄せたゴミを、早帆が構えるちりとりの中に押し込んだ。
「真魚ってほんと、海好きだよね。気が付くと海ばっか見てる」
「そ、そうかな……なんか昔からの、クセで」
なんだかいつもぼうっとしてると言われてるみたいで若干恥ずかしい。海を見るクセはいつものことだし。
でもあたしもあたしなりに、学校では上手く馴染んでいるつもりだった。周りにも目を向けているつもりだった。浮かないように、はみ出さないように。
「そういうとこ、やっぱりお母さんに似てるのかな」
「……え?」
早帆の口からその言葉が出てきて、あたしは思わず目を丸くする。
そんなあたしに早帆はなんでもないことのようにカラリと笑う。
「前言ってたじゃん、お母さんも海ばっかり見てたんでしょ。海に恋してるみたいだったって…だけど海が相手なら仕方ないって笑って言ってたんだよ、あんた。ヘンなやつだなーって思ったから、よく覚えてる」
まさか自分からそんな話をしていたなんて、自分でもびっくりだった。そしてそれを殆ど覚えていない自分にも。そんなあたしの胸の内が隠しきれていなかったのか、早帆がまた苦笑いを向ける。
「その顔、覚えてないんでしょ。まぁ真魚は、なんとなく学校では誰からも、距離とってるてカンジだもんねぇ」
「え……あ、あたし、そんなカンジかな……」
「そうだよ、ある意味素直で良いけどさ」
心底呆れたように言われて、言葉に詰まる。だけど早帆は楽しそうに笑って言った。
「でもあたし真魚のそういうところ、嫌いじゃないよ。一緒に居て疲れないし、意外と自分が世話焼きだって初めて知ったし。……正直あたし、前まではあんまり海に興味なかったんだよね。近すぎてさ。だけどあんた達、みんな海好きじゃん? はじめは付き合ってただけだったんだけどさ……あたしが気付かなかった良いところとか、知らない世界とか。自分じゃ見つけられなかった世界を、あんた達に教えてもらったかんじかな。だからあたし、スキューバダイビングのインストラクター目指すこと決めたんだ、海潜るの、好きだしね」
早帆はいつだって自分の本能に忠実で、素直でちょっと強引で。
何かを言い出すのはいつも早帆だ。みんなで何かするのが好きで、恋話が好きで。
それから友達を、大事にする。
あたしなんかとは違って。
「夏休み、ちゃんと実家にも帰りなよ。なんだかんだであんた家族好きでしょ。あたし達は別にいいけどさ、ちゃんと家族には言いたいこと言わなきゃダメだよ、あんた自分が思ってるより顔に出てるんだからね。そんなんじゃあんたの家族だって、寂しいに決まってんじゃん」
――――…
蜩が遠くで鳴いている。いつもよりどこか少しさみしげに。
ひとり学校の校門から続く坂道を足取り重く下る。いつものように海を見つめながら。
進路調査票のこともあるし今日は帰りに実家に寄ると話したら、早帆たちはあっさりと笑って見送ってくれた。バイトのシフト表も家なので、分かったらすぐに連絡してと念を押されて。
早帆たちはまだ教室に残っていつものノリで、夏休みの予定をたてているのだろう。当たり前のようにそこには、あたしのことも人数に入れてくれている。
あたしは、早帆たちの軽くてどこか強引なノリが苦手だった。自分のことだけしか考えていないような、有無を言わせないような、強引な空気。いつも適当にその場その場をやり過ごしてきた。
だけど違った。
自分本位で身勝手なのはあたしの方だ。
いつも逃げ道を探していた。ひとりになりたかった。だけど学校でひとりでいる勇気は、あたしにはなかった。だからあたしは、都合良く一緒に居てくれる早帆たちを、利用していたんだ。
自分の為だけに。
「――――
後方から自分の名前を呼ばれ、足を止めて振り返る。
少し息を切らせて汗を滲ませた七瀬が、長い坂を駆け下りてきて隣りに並ぶ。
「良かった、追いついて。途中まで、一緒に帰ろ」
七瀬の笑顔はいつもと変わらず、優しくて眩しいものだった。だけどそれが余計に後ろめたい。
胸の奥に甦る焦燥。
あたしのこと、好きだって言ってくれたひとだ。あたしはまだちゃんと、返事できていない。だけどそれがもう、ひとつの答えだって気付いていた。
「あれ、真魚……そんなブレスレット、してたっけ? バイト先のお土産ものか何か?」
ふいに言われて七瀬の視線の先、自分の右手を持ち上げる。そこには赤い色に黒い紋様が入った石がいくつも連なったブレスレットがあった。
あたしがバイトしている水族館には売っていない。見たことない。
これは……この石の名前は――
「……ジャスパー……」
理由もわからず、涙が滲んだ。
この石は、彼がくれた心の証だ。あたしのこと、家族だって言ってくれた――
見捨てられた気になっていた。身勝手に。
この世界のこととか、家族のこととか、友達のこととか。なにひとつ分かっていなかったのは、分かろうとすらしていなかったのは、きっとあたしだけ。
あたしだけだったんだ。
「……真魚?」
「……七瀬ごめん、あたし学校に忘れものしちゃったから、戻らなきゃ」
そう言ったあたしの腕を、七瀬は掴んだ。それはとてもゆっくりとした動作に見えた。だけど掴まれた腕は熱くて痛い。遠く、蜩の声。まっすぐ、七瀬があたしの顔を覗き込む。
何かを感じ取ったように、その瞳が揺れていた。あたしは黙って見つめ返す。
「……俺も、付き合うよ?」
あくまで優しい声音で言う七瀬に、あたしはふるふると首を振る。もうこれ以上、七瀬の優しさに甘えることはできない。あたしはあたしの気持ちを、知っているから。
そっと七瀬の手に自分の手を重ねる。その手の感触が、夜の海にひとり置いてきてしまった人の手の感触と重なった。
「ありがとう、七瀬。でもあたし、七瀬には何も返せないから。ごめんなさい。あたし、気になるひとが居る」
――忘れたかったのだろうか。
あの世界でのこと、あたしは夢にしたかったのだろうか。
どうして忘れてしまうのだろう。こっちに戻ってくると。
でもどうしたってこの心は、彼を忘れることはできないのだ。
彼の声があたしの胸を、何度だって熱くするから。
「……それは……昨日の返事、ってことだよね」
笑っているのに七瀬の顔が少しだけ陰る。あたしはゆっくりと頷いて、だけど七瀬の視線から逸らさないよう向き合った。
『――マオ、言いたいことはちゃんと言わないとダメです。家族の内の誰かがひとりでも幸せじゃないなんてイヤです』
ジャスパー、そんなこと言ってくれるの、ジャスパーぐらいだと思ってた。だけど本当はあたしが耳を塞いでいただけで、目を閉じていただけで。
「あたしなんかのこと……好きって言ってくれて、ほんとうに嬉しかった。あたしも、七瀬のこと、好きだよ。だけど……友達以上には、みれない。失いたくないけど、戻れなくても、これ以上七瀬にだけ嫌な思いさせられない」
聞こえていなかっただけなのかもしれない。見えていなかっただけなのかもしれない。自分が傷つかない為だけに他人を傷つけて、ないがしろにしていた。
そうして自分を、自分だけを守ってきた。
「――……そっか。ありがとう、ちゃんと返事をくれて。……それから」
七瀬はそっと瞼を伏せて、それから掴んでいた腕をゆっくりと離す。
「自分のこと、
なんか
、なんて言わないで。俺はそっちのほうが、嫌だよ」少しだけ言葉に詰まりながら、だけどどこまでも優しい七瀬にあたしもできるだけ笑って頷いて、重ねていた自分の手を離す。
それから七瀬を置いて来た道を引き返した。
目指す場所は決まっていた。
――旧校舎のプールがあと2日で取り壊される。
それはつまり、あたしにとって唯一の“出入口”を失うということ。
そしたらあたしは、もうシェルスフィアに行けなくなる?
ううん、それとも……この世界に、帰ってこれなくなる……?
分からない。だけど。
今は戻らなければいけない。
それだけが確かだった。