(9)
文字数 1,989文字
「……イリヤ?」
さっきからイリヤの様子がなんだか変だ。
ただ力を見せるだけのはずだった。そしてイリヤの持っている情報を、少しでも引き出せればと。
イリヤにこんな顔をさせる為ではなかったはずだ。
「イリヤ、どうしてそんな顔をするの? 本当は何が知りたかったの……?」
あたしの問いに、イリヤはそっと瞼を伏せて俯く。それからゆっくりと自分の両手で、あたしの両手を握った。
冷たい手だと思った。意外と骨ばった、細くて長い指。あたしはそっと握り返す。
そしておもむろにイリヤはあたしの両手を自分の首元に導いた。絡めた指を解き自分の首の輪郭をなぞらせるように、添えられるのはあたしの手。
そこには真珠の首飾りが幾重にも巻かれたイリヤの細い首がある。指先に触れるその感触はさっきの結晶と似ていた。
イリヤはゆっくりと顔を上げ、それから微笑んだ。はじめて見た時のようにひどく儚げで美しい笑みだった。
その口元が小さく動く。だけどあたしにはなんて言っているのか分からない。
その声は、あたしには――
『――解放を』
その瞬後。
指先に触れていた感覚が、形を変えた。
視界に上がる水飛沫。散らばる、透明な水の色。あたしの手とイリヤの体を濡らしたそれは、肌や布や床に染み込んでいく。
目の前には顕わになったイリヤの、細い首筋。先ほどまでの首飾りはそこにはもう無く。
ただ口元に笑みを浮かべたまま涙を流すイリヤの姿が、あたしの脳裏にまでくっきりと刻まれていた。
クオンも驚きのままその様子を見つめている。事態が上手く呑み込めなかった。
どうして、イリヤの首飾りが水に? だって今までの流れだと、この力が及ぶのは同じ力の元でだけだ。
きっとただの石を液体にすることなんてできない。同じ力のもとに、結晶化されたものでなければ――
「……トリティアを……知っているの……?」
ほぼ無意識に、そう呟いていた。頭に沸いた疑問がそのまま口をつく。
イリヤはゆっくりと首を振った。
「……でも」
小さく聞こえてきた声に、あたしもクオンも目を瞠る。
それは紛れもなく、イリヤから聞こえてきた声だった。少し掠れた、だけどあたしにしか聞こえなかったあの歌声と同じ声。
「ずっと、あなたに会いたかった。あなたのこと、ずっと待っていた――」
―――――――……
ベッドで眠るイリヤの姿を再度確認して、そっと部屋から出て扉を閉める。念のため鍵は閉めておくことにした。それから部屋の外で待っていたクオンと共に再び人気の無い船尾へと向かう。
あの後意識を失ってしまったイリヤをクオンが部屋まで運んでくれた。船医に診せようか迷ったけれど、クオンが寝ているだけだというのでひとまず様子を見て寝かせておくことにしたのだ。
「……どう思う?」
人が居ないことを確認してから、そう切り出す。隣りに並んだクオンは相変わらずの無表情で視線だけちらりとあたしに向けた。
「……以前も説明した通り、海の神々の力に関しては不明な点が多過ぎます。なのでこれは私個人の憶測になりますが」
「それでいいよ、それが聞きたい」
あたしの返事にクオンは視線を真っ直ぐ前に戻した。その先にはシェルスフィアの海が広がっている。
「貴女の手によって彼女の首飾りは液体化しました。そこから推測できるのは、あれが貴女……いえ、貴女の中のトリティアが過去に結晶化した物だったからだと推測されます。どうしてそれを彼女が持っているのかは分かりませんが、貴女の力を見た彼女は貴女なら“できる”と確信を得た。だから貴女に、半ば無理やりに“解かせた”――」
――“解いた”。それはつまり、そこに“何か”があったということだ。
「……何を、解いたの……?」
「それは彼女に確認しなければ分かりません。現状分かっているのは、それを“解いた”後彼女は声を取戻し、そしてその為に貴女を待っていたということです」
声を失ったというのがイリヤがついた嘘だとは思えなかった。
あの、あたしにしか聞こえない歌。あれはイリヤの声にならない声が奏でていた。それにそんな嘘をつくメリットがイリヤにあるとは思えない。
「ですがここまでの状況からおそらく、それは“呪い”でしょう。あの首飾りはトリティアに呪われていた。そしてその所為で彼女は声を失っていた。だからこそ貴女を……正確にはトリティアをずっと待っていたのではないでしょうか。呪いを解いてもらう為に」
思わず自分の手をぎゅっと握る。それをはっきりと言葉にされて心臓が痛みを覚える。
“呪い”と聞いて真っ先に思い浮かんだのはシアの姿だった。その所為で親族達の命を奪われ、今も自身の命を削られ続けている。
そこにあるのは悪意だ。