(8)
文字数 1,714文字
どこから持ってきたのか、クオンがあたしの目の前に桶を置いた。その中には水が半分ほど入っている。
「海水です。たぶん貴女にとっては真水よりは相性が良いはずです」
クオンの声を聞きながら、身を屈めてその海水に右手を浸す。その冷たさに少しだけ心が冷静になる。
できないとは、もう言わない。やってみる義務がある。あたしには。
あたし自身の力は未だひどく不安定だってクオンは言ってた。
じゃあ安定させるには? ちゃんと制御するには――知ることだ。自分の力と、それから自分が使おうとしているこの力が、なんなのかを。
あたし自身の力なんて分からない。未だに信じられない。そんな力が自分にあるなんて。だけど。
『――お前じゃないと、ダメだ』
シアは、そう言ってくれた。それはあたし自身に向いたものじゃなくても、それだけの力が今あたしの
自分のことは、未だ信じられないけれど。シアのことは信じられる。
浸していた右手を持ち上げ、海水をひと掬い。窪ませた手の平の中に海水がゆらゆら揺れる。
その手をゆっくりと慎重に傾けた。少しずつ重力のままに落ちる水滴。零れるそれが日の光に反射する。
ぽちゃり、ぽちゃりと樽の中に吸い込まれるその水滴が、やがて形と音を変えた。
「――……!」
最後の数滴が、ぽとりと落ちて桶の底に音もなく転がる。それを水の中から拾い上げて目の高さまで持ち上げた。
雫の形に固まった結晶。綺麗な丸ではないのは、まさに自分の力の未熟さの現れのようにも思える。――だけど。
「で、できた……」
こんな感覚的なものでできたと言えるのかは分からない。だけど今回は自分の意思で、形を与えたのだ。自分の意思で使ったのだ。
“神”の力を――
「……毎回同じ成果を残せれば、一定の合格ラインといったところでしょうか」
クオンの言うことは最もだった。この力を等しく扱えるわけではないことは明確だ。ひと掬いの内のたかが数滴、叶っただけなのだから。
「空いている時間は常にこの訓練をしてください。自分の意思で、結晶化する・しないを完璧に制御できるようにするんです。それ以外のことはそれからですね」
急に師らしくなったクオンに、だけど素直に頷く。この“訓練”が初歩的で自分に向いているのは有難かった。これ以上高度な要求をされてもできない自信の方が大きい。
「ね、イリヤ。とりあえずこんなカンジなんだけど……」
事の発端でもあるイリヤに雫の結晶を掲げながら視線を向ける。視線の先のイリヤは俯き体を震わせていた。
「い、イリヤ?!」
先ほどまでとは明らかに様子がおかしい。どうしたというのだろう。
あたしの声にイリヤはハッと顔を上げ、それから持ち歩いていた石板とチョークをカバンから取り出す。イリヤの声代わりに使う物だ。あたしの場合は文字も読めないので、更に通訳が必要になるのだけれど。
イリヤはどこか動揺を隠せないまま、そのノートサイズの石板にチョークを走らせる。クオンが目でその文字を追い、それをあたしに伝えた。
「……逆は、できますかと」
「……逆?」
「その結晶を水に戻すことはできるか、という意味でしょうか」
クオンの解釈に、イリヤはこくこくと頷いて見せた。その瞳は真剣そのもので。やる前にできないとは言えなかった。
今さっき漸く自分の意思で結晶化ができたばかりだ。いきなりその逆を、なんて。できるのだろうか。
でも不思議とできないとは思わなかった。“結晶化”が有する力の一部である以上、与えたものを取り戻すのは当然の摂理にも思えるから。
持っていたその結晶を、手の平の上で転がす。
やることは違う、だけど根本的には違わないはずだ。
大事なのは、それを扱うあたし自身の意思――
「――!」
瞬後、滴の結晶がぱしゃりと小さな音をたてて液体化した。結晶の形からもとの海水の形に戻ったのだ。
「で、できたみたい……」
ほっと息を吐きながら、その視線をイリヤに向ける。
だけど今度はイリヤは、今にも泣きそうな顔をしていた。