3:罪人

文字数 2,948文字

 話し声に、目が覚めた。
 瞼を開けると、リリーがタオルを取り換えてくれたところだった。
「あ! 気が付きました?」
 リリーの左目には眼帯が当てられていた。何度も使ったであろうそれは端切れ同然にあちこちがほつれ、くすんだ色をしている。それが一層生々しさを際立たせていたが、少女はまるで気にしていないようで、意識の戻った紫陽花(しょうか)に安堵の笑みを浮かべて助け起こした。
「…………」
 紫陽花は部屋をぼんやりと見回した。囲炉裏には新しい薪がくべられ、その上で鉄瓶がヒューヒューと鳴っている。さっきの話し声は大男だったようだ。携帯をぱたんと閉じると、コートの内側に仕舞い込んだ。
「起きたか。お前さん、急に倒れるから心配したぞ。まあ、さほど時間は経っておらんから安心せい」
 リリーは紫陽花がきちんと座りなおしてから「どうぞ」とお茶を差し出した。だが紫陽花は無言を貫き、膝の上で拳を握りしめたまま微動だにしない。
 その様子をしばらく見つめていた大男は、やがて腰を据え直すと、やれやれと小さなため息を漏らした。
「……いかんのう。年を取るとどうもあれこれ先走る。今回は儂の失態じゃ。よもや事態がそれほどまでとは、儂とて予想外じゃった――」
 大男は静かに、うつむく少女へと訊ねた。
「――相方の〝堕落(だらく)〟を目の当たりにしたそうじゃな?」
 紫陽花の隣で、リリーが悲鳴に近いうわずり声で「え?」と訊き返した。
竹織(たけおり)が……堕落…………? 若様、本当なのですか……?」
「魔力欠損じゃそうな。まあ、連れて帰ってきた奴が優秀じゃったのが幸いしたのう。意識は戻っておらんそうじゃが、命は取り留めたようじゃ」
 リリーは小さく胸を撫で下ろしたが、再び向けた紫陽花への視線にははっきりとした躊躇いが混ざっていた。
「こうなってはあれこれ手を回すだけ無駄じゃな。ちぃと予定が変わったが、すべてを打ち明ける潮時じゃろう」
 リリーが背筋を正して座りなおす。大男が咳払いをひとつして、話しだそうとしたその時だった。


「…………あいつなのね…………?」


 這い昇るような囁き声。
 紫陽花だった。前髪の隙間から垣間見える青い瞳が怪しげな光を放つ。
 大男は開きかけた口を止め、じっとそれを見つめる。やがてそのしゃがれ声に乗せてひとつの爆弾を投じた。

「――お前さんを狩り、ここへ連れて来たのは他でもない、竹織じゃ」

 次の瞬間、紫陽花は湯呑みを蹴飛ばして立ち上がっていた。こぼれたお茶が囲炉裏にかかりジュッと鳴く。荒々しく踵を返そうとした紫陽花の手を、大男はたやすく掴んでその勢いを殺した。
「待ちんさい」落ち着き払った声が簡潔に問う。「どこへ行く?」
「離してっ!」紫陽花は鬼気とした怒号をあげ、掴まれた手を振りほどいた。「あいつのところに今すぐ行くんだから!」
 だが、強引に踏み出した足はすぐに止まった。
 リリーが両手を広げて部屋の入口に立ちはだかっていた。口を固く結び、剥きだした目は怯えに震えていたが、頭ひとつ大きな紫陽花を食い止めようしていた。
「……行かせません」
「退いて!」
「嫌です」
「退きなさいッ!!
「退きません!!」リリーは必死に首を横に振った。「あの人を、竹織をどうする気ですか!?
「あなたには関係ないわよ! いいからそこを退きなさい!!
「いいえ! たとえ関係なくても退くわけにはいきません!!
 細い足をがくがくと揺らしながらも、リリーは根が生えたようにその場を動こうとしない。紫陽花があからさまな舌打ちをかました。
「私が何しようと勝手じゃない」苛立たしげに髪を掻き回して叫ぶ。「恨むなとでも言いたいんでしょうけど、もううんざりよ! 口裏合わせて本当のことを隠して、平然と笑っていられるあなた達死神にはね! ましてや、あいつは私の生きる時間を取ったのよ! このまま黙って過ごすなんて冗談じゃないわ!!
「――ほう。だから殺すか? 相方を」
 地鳴りのように背後で大男が呟いた。静かに腕組をし、あぐらをかいたまま、獣の眼と化した紫陽花を鋭く見つめている。
 紫陽花は鼻先で薄く笑った。
「……そうしたいけど、きっと出来ないわ。そのくらい私にだって分かる。でも、何もしないなんて御免よ。今すぐあいつを叩きのめしてやらないと腹の虫が治まらない」
「そうか」大男はたっぷりと息を吐いて腕組をほどいた。「ならば仕方ないのう」




 シャラン。




 擦れる鈴の音と共に、うなじに冷たい感触が突き立った。

 背後から大男が、壁に掛けていた大鎌を紫陽花の白い首筋に添わせていた。
「わ、若様……!?」リリーが小さく悲鳴をあげた。
 紫陽花は呼吸を忘れ、その場に凍りついた。
「――怒りに我を忘れて失念しとるようじゃが、銀髪は罪人と言ったはずじゃな? 儂も然りであるべくして、よもやここからただで帰れると思ってはおるまいの?」
 怒りの熱が冷まされるなどという生易しいものではない。骨の髄から一瞬で氷漬けにされる冷たさが、大男の全身から放たれているのを感じる。
 寒さに汗が噴き出した。
「儂は昔、王の首を取ってのう。お前さんの綺麗な目を真っ赤にすることは呼吸に等しく簡単なことじゃ」
 のんびりとした口調で言いながら、大男は鎌のみねを滑らせた。装飾品同然と言っていたが、大鎌は毛の一本一本すら映りこむのが分かるくらいに磨き上げられていた。使い手たる大男なら撫でるように首を飛ばせるだろう。
「自分勝手な輩というのはどうも好かん。……じゃが、儂もお前さんにちょいと用があるんでな。ここはひとつ手を組まんか? 儂はちぃとした有名人でな。塔でも多少のワガママは通るんじゃ。お前さんの望みを叶えられるやもしれんぞ? 『眼前こそ真。我道を開け』――これ、儂のぽりしぃ(・・・・)じゃ」
 首筋から鎌が離れた。紫陽花はふらつきながら距離を取ると腰を抜かしてへたり込み、ゆるゆると振り返った。
「…………あなたは…………」
「おお。まだ名乗っとらんかったのう」大男は鎌を壁に掛けなおして悪戯っぽくニタリと笑った。「儂は杜若(もりわか)。見ての通り、態度と背格好だけは大きい、ただのジジイじゃ」
 少々黄ばんでいるが虫歯のない大きな歯は中々立派だった。リリーは紫陽花の前に両膝をついて手を取ると、真っ直ぐ紫陽花を見つめて訴えた。
「……あなたにとっては酷なことかもしれません……。だけど、どうかお願いします。あの人を……竹織を支えているのは紛れもなく紫陽花様なのです。彼はまだ他の死神と違わぬ自由の身だし、鎌もふるえます。過ちを犯して逃げることだって出来たはずです。それでもあなたを守る道を選んだ――その気持ちを無駄にしないでほしいのです」

 傷だらけの小さな手は、優しく、力強く、そして温かかった。

 紫陽花は唇を噛みしめてしばらく少女を睨んだが、やがてゆっくりと頷いた。
「――さて、そうと決まれば早速支度じゃな。リリー。コートを貸してやってくれんか? 塔へ戻る手筈を整えよう」
 杜若はそう言うと、亀のようにのそのそと部屋を出て行った。
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