3:危機感

文字数 3,974文字

「あいつの筋トレに付き合ってるだって!?
 アニスはあんぐり口を開けた。若干うわずった声に、周囲の何人かが振り向いた。
「うん。私、サッカー部のマネージャーやってたし、ああいう汗臭い所、結構落ち着くんだよね」
 紫陽花(しょうか)はアップルティーを注文するとアニスの向かいに腰かけた。
 昼下がりの食堂。その端っこの席で、アニスは手にした革張りの分厚い本を指でなぞりながら読んでいた。時折指を止め、じっくりと読んではまた進む、の繰り返し。その手が止まった今、なんだかどっと疲れが沸いた。
「……なんか変なことされてないだろうね?」
 疑る眼差しを向けると、紫陽花は笑って手をひらひらと振った。
「ないない。アニスってば、カイがそんなことする人じゃないの分かってるくせに」
「いーや! ああいう奴こそ気をつけないとダメだよ。無自覚ってパターンが一番タチ悪いんだから!」
 熱弁を振るって煎茶を啜ると、アニスは本に視線を戻した。アップルティーを届けに来たウエイターに、見向きもせず追加の煎茶を頼んだ。
「そうかなあ。裏表激しい方がよっぽどタチ悪いと思うけど……」
 緑都(ろくと)を思い出して顔をしかめながら、紫陽花は相槌に近い返事をした。アップルティーからは控えめな甘さが湯気と一緒に立ち昇ってくる。一口含むと曇った気分をなだめてくれた。
「……ところで、あの人混みはなんなの?」
 紫陽花はごった返している入口付近に目を向けた。
「ああ。先月の実績リストが掲示されたのさ」
「実績リスト?」
「ひと月に仕事どれだけやったかっていう集計さ」
「なんか会社みたい」
「まあ、ここは会社だからねえ。アジの実績も載っているよ。メールも来ていただろう?」
 そう言えば昨日メールが来ていたのを思い出した。訳が分からなかったから流し見ただけだったが、確か実績総数九件とあった気がする。
「これって多いの? 少ないの?」
「平均ってところだね。普通、死亡予定者一人に最長で四日の時間を割くわけだから、どんなにベテランでも何十件って数にはならないんだよ」
「なるほど……」
 ふと、竹織(たけおり)のこれまでの実績が気になった。あの性格と技量からして、普段ならもっとたくさんの件数をこなしているに違いない。仕事量を調節してくれているのは最初から気づいていたが、本当はどう思っているのだろう……?
 急に静かになった紫陽花に、アニスは心配そうに声をかけた。
「……大丈夫かい?」
 紫陽花がハッと顔を上げると、アニスは「竹織に聞いたよ」と言った。
「死神の仕事は結局のところ、死際に立ち会う事だからさ。死神でも、なったばかりの奴は大体みんなノイローゼになっちまうくらい、精神的に参るんだ。そんなキツイ仕事を、アジはよくやってくれているよ。……だから尚更、私らみんな心配しているんだ。アジが無理に元気に振舞っているんじゃないかって。辛かったら遠慮せずに言っておくれ。竹織に言いづらいなら私でも構わないから」
 紫陽花は困ったように笑うとカップを置いた。
「チコにも言われた。泣きたきゃ泣けって。……そりゃ、確かにカラ元気もあったけど、ここでの生活が最悪かと言えばそうじゃないし、なんか複雑な気持ち。チコもアメとムチが激しいし……ま、根がいい奴なのはよく分かったけどさ」
「竹織は優しい子さ――悲しいほどにね」
 アニスの顔に一瞬、影が差した。紫陽花が不思議そうに声をかけるとすぐに影は消え、優しい笑顔に戻った。
 ウエイターが新しい煎茶を持ってきた。礼を言って受け取ると、アニスは一口飲んでまた読書に戻った。
「ねえ、さっきから何読んでるの?」
 紫陽花が本を指差した。アニスは少しだけ本を立てて、表紙が見えるように向けてくれた。革製の使い込まれて擦り切れ気味のカバーに、金の刺繍で『魔力療養全書』と書かれている。
「アジの体に魔力がかかってるかもと思ってね。赤目にならないまま一ヶ月だなんて、実体になにかの作用が働いている気がして――まあ、私の仮説だけどさ」
「へえ、魔力って本当にあるんだ。ファンタジーの話だと思ってた」
「アジにとっちゃここも似たようなもんだろう? ファンタジーなんて可愛らしくはないだろうけど」
「それもそーだね」
「魔力ってのは簡単に言うと、人間が持ってる免疫力とか治癒力が化けた血液みたいなものさ。元々治療に使われる力だから、もしかしたらと思ったんだけど……。なにせ生霊に対しての前例なんて無いからね。結果はこの通りさ」
 アニスはテーブルの下を指差した。その先を追って紫陽花が下を覗くと、アニスの足元に、今手にしている本と同じように分厚い革張りの本が何冊も積まれていた。付箋が沢山飛び出した本の山には『一日で出来る空の飛び方』なんていうよく分からないものもあった。
 制服のポケットで携帯が震えたのはその時だった。
 紫陽花は顔を上げて携帯を取り出した。発信元がぽつんと浮かび上がっている。
「チコからだ」
 アニスがピタリと読書を止めた。紫陽花は「なんだろう」とぼやきながらアニスを見る。アニスは首を傾げながら応答を促し、紫陽花も頷いてボタンを押した。
 見せたいものがあるから降りてこい――たったそれだけで電話は終わった。
 あまりの短さに、おとなしくなった携帯に向かって憤慨する紫陽花を、アニスはどうどうとなだめすかした。
「心当たりないのかい?」
「全然」紫陽花は舌打ちした。「ったく、いっつも一方的なんだから」
 文句たらたら、ちょっと言ってくると立ち上がった紫陽花を引き止めて、アニスは懐から金色の縁取りが施された一枚のメタルプレートを取り出して渡した。
「なにこれ?」紫陽花はプレートをしげしげと眺めた。
「自動運転船貸出証さ。アジ一人じゃ船動かせないだろう? それを船着場で渡せばオートマ船を貸してくれるよ」
「……妙なところでハイテクよね、この世界」
 アニスに礼を言って、紫陽花は小走りに食堂を出て行った。アニスは紫陽花の姿が見えなくなるまで振っていた手を頬杖にして、眉をひそめた。
「竹織一人が、どうして下に……」
 その呟きは食堂中に響く大きな声に掻き消された。
「アニス!」
 顔を上げると、カイが駆け寄ってきたところだった。息を弾ませ、汗を光らせている。あちこち探し回ったであろうことはすぐに分かった。
 アニスは煎茶を啜ってのんびりと言った。
「珍しいじゃないか。今日は特に仕事も無いだろうに、そんなに慌ててどうしたんだい?」
「アジはどこ!?
 アニスには目もくれず周囲を見ながらカイは矢継ぎ早に言った。その態度にアニスから小さくカチンと音がした。
「……たまに見かけたと思ったらそれかい。いい加減に――」
「どこだ!?
 カイが怒鳴るように吠えた。アニスは面喰らって一瞬言葉を詰まらせた。有無を言わせぬ剣幕で詰め寄ってくるカイに、仕方ないなとため息を吐いて面倒くさそうに答えた。
「……たった今、竹織に呼ばれて下へ降りたよ。なんだい? 船頭でも買ってでる気――」
 ドサッと鈍い音を立てて本が落ちた。
 カイはアニスの手を強引に引っ張って風のように食堂を出た。
「ちょっと……!? 何するんだい!」
 突然の事にアニスは悲鳴をあげた。ぎっちりと掴まれた右手がじわじわと痺れてくる。振りほどこうともがく度に痛みが走る。苦痛に顔を歪めながらアニスは半分宙に浮きながら走らされた。
「俺達の下界申請はもう出してある!」
「はっ? そうじゃなくて……ちょっ……待ちなよっ!!
「アジを追うぞ! 見失っちゃダメだ!!
 アニスの言葉を無視して一方的にカイが言った。そのまま無言で廊下を突っ切り、人混みを器用に縫って玄関扉を飛び出した。外は向かい風が容赦なく体に打ちつけてくる。それでもカイは一心に走り続けた。
 中庭を抜けた辺りで、アニスは全身の力を込めてブレーキをかけた。はたき落とすようにやっとの思いで掴まれた手を振りほどくと、後ろからの力を失ったカイがぐらりとよろめいた。
「いい加減にしなっ! いきなり何だって言うんだい!?
 痛む手首を庇いながら、息を荒げたアニスが轟々と喚いた。合わない歩幅で走らされたせいで足がガクガクする。カイも同じように息が上がっていたが、裾を払って向き直ると落ち着いた様子で告げた。
「竹織が危ない」
「……なんだって?」思わぬ言葉に間抜けな声が出た。
「さっきから吐き気がするんだ。……多分、時間が無い」
「は、吐き気って……あんたが? なんでそれが竹織と――」
「話せば長くなる」カイはぐっと力を込めた。「頼む」
 真っ直ぐ見据えた瞳に怪しげな陰りは一点も無い。
「頼む」
 もう一度、噛みしめるようにカイが言った。
 おそらくカイ自身もはっきりとした事は解っていない。ただ己のカンを信じて動いているだけだろう。
 だけど――
 肩をすくめてアニスは髪を払った。
「……やれやれ。あんたの真面目顔見るのは、あの日以来だねえ」
 アジが狩られたあの日も、あんたはそんな顔してたっけね。普段は全然仕事しないくせに、こういう時ばかりいっちょまえな顔するんだから。
「分かったよ。急ぎなんだろう? ホラ行くよ」
 アニスはカイの肩をポンと叩いて駆け出した。カイもすぐに追いつくとアニスに並走しながら申し訳なさそうな表情を浮かべた。アニスは横目でチラリと見て、子供をなだめる母親の口調で言った。
「何十年あんたと組んでると思ってるんだい。話は後でじっくり聞いてやるさ」
 カイは小さく礼を言うと、速度を上げてアニスの前を走った。
 体に受ける向かい風が少しだけ和らいだ。
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