6:輪廻

文字数 2,915文字

 決勝戦ともなれば、会場はプロ野球も行われるような市営球場になり、各々の応援団はもちろん、地域の人々や敗れ去っていった高校のリサーチ団なんてのもいたりして、大層熱気溢れる一戦となる。試合開始まではまだ時間があるが、気の早い観客は良い席の確保に精を出していた。気温は四十度近くあるだろうか「熱中症にご注意下さい」の球場アナウンスが流れている。
「桜!」
 (つばさ)がボールとグローブを掲げて駆け寄ってきた。キャップの下には蛍光色の黄色いヘアバンダナを巻いている。
「ちょいと肩慣らし」
 ニカッと笑みを浮かべて(さくら)と距離を取ると、グローブを構えた。
「決勝かあ。早いなあ」
 投球練習をしながら翼が思いふけるように言った。
「何ふけってんのよ、今からでしょ?」
「桜、緊張してる?」
「……ちょっとね」
 苦笑した桜に、翼は大らかに笑い返した。
「おうおう。緊張したまえ四番よー」
「もう、他人事だと思って」
「わははー。悪い悪い」 
 なんだかんだ言いつつも、楽しそうに笑う翼に感化されて、桜の緊張も幾分落ち着いた。
「桜は誰か応援来るの?」
「父さんも母さんも仕事だから来ないよ。桃葉(ももは)だけだと思う」
 軽いキャッチボールとはいえ、グローブに球が収まるたびに「バンッ」と音が鳴るせいで、少し声を張らなければならなかった。
「今日かなり暑いよ? 妹大丈夫?」
「大丈夫でしょ。今に始まった暑さじゃないし、対策法なんて下手に私より詳しいんだから」
「それもそっかあ」
 十球ほど投げ合った頃、キャッチャーの準備が整ったらしい。翼はブルペンに戻っていった。
 桜は客席をぐるりと見渡した。まだ白い日傘は見当たらない。
「大丈夫かな……」
 心配も束の間、監督の召集が掛かり、マウンドを離れざるを得なくなった。

  *  *  *

 紫陽花(しょうか)は突っ伏していた。朝食に賑わう食堂の一角では、やけ食いした皿が天高く積まれ、近くを人が横切る度に不穏な揺れを生じていた。
「随分と食べたねぇ。大丈夫なのかい?」
 ガチャガチャと音を鳴らしながらアニスが言った。近くのウエイターを捕まえて皿タワーを片付けている。
「中華丼追加で」
「もうやめときな」
 見かねたアニスがぴしゃりと言った。すっかり平地になったテーブルは荷が降りた喜びに輝いている。アニスはウエイターに煎茶を頼むと、紫陽花の向かいにどっかり腰掛けた。
「……カイは?」
「広間さ。仕事探してくるって言ってたけど、どうせまた油売ってんだろ」
「そう……」
 一向に頭を上げる気配なく紫陽花が言った。アニスはしばらく見つめてから、友達の何気ない会話のようにそれとなく訊いた。
「――竹織(たけおり)、うるさい奴だろう? 仕事のことになると特に」
 紫陽花の肩がビクッと動いたのを横目で捉えた。
「熱心なのはいいんだけどねぇ」
 煎茶が届いた。アニスは一口啜ってたっぷりと息を吐いた。
「……で、何かあったのかい?」
 紫陽花の落ち込む理由がおよそ当たっていると確信したアニスは本題に踏み切った。
「……私が死期を延ばそうとしたの」
「なるほど」アニスはまた一口啜って呟いた。
「確かに勝手なことしたのは私だけど、初めてだし……なにもあんなに言わなくたっていいじゃない」
 紫陽花は体こそ起こしたが俯いたままだった。アニスは長い足を組み換え肩肘をついた。
「……驚かないのね」
「まあねぇ。珍しい事じゃないし、私もやりかけた事あるしさ」
「……ほんと?」
「ああ」
 ケロッとした顔でアニスは答えた。紫陽花の垂れ下がる前髪の奥から光る青い瞳に、アニスは少し安心したように笑いかけた。
「私が死神に成り立ての頃さ。同じように竹織の奴に怒られた」
 アニスは思い出しながら苦笑した。
「竹織は真面目だし仕事野郎だから、とりわけ厳しくてねぇ。最初は何も言わないで新米に全部やらせるんだけど、あの子、読唇術に長けてて、下界を見ながらしっかり会話を読んで監視してるのさ。間違っちゃないんだけど、もう一言添えてやればいいものを、口下手でただ喧々囂々言うもんだから、よく喧嘩したよ」
「……アニス、チコと相方やっていたの?」
「その時だけね。最初にも言ったけど、竹織はああ見えて死神歴長いから新米の教育係もやっているんだ。だから、大概の死神は一度は絡んだ事があるのさ」
「そっか……」
 紫陽花は気の無い返事をした。激怒したあの一面が自分特例に向けられたものではなかったことに安心した一方で、寂しくも感じた。
 アニスは長い息をひとつ吐いた。波打つ煎茶に綺麗な顔が映る。
「アジは輪廻って分かるかい?」
「……輪廻?」
 アニスは頷いた。子供に諭すような穏やかな物言いは、答えを求めているのではないことを示していた。実際、言葉を聞いたことがあると分かれば話が成立した。
「死期を延ばすと、輪廻から外れるのさ」
「……よくわからない」
「そうだねぇ。『来世でまた会おう』ってのよく聞くだろ? それが叶わないと言えば分かり易いかい? もっと簡単に言うと、もう生まれ変われなくなるってことさ」
 紫陽花の心臓が鳴った。アニスは飲み終わった煎茶を静かに置くと紫陽花を見据えた。姉ぶった穏やかな顔は眉根を引き締めた仕事人の表情へ変わり、紫陽花を試している。
「しっかりしな。アジは結局、死期を延ばさなかったんだ。間違ったことはしていない。けど、ここで打ち拉がれていたんじゃ同じことだよ。死神は死者を看取って連れてくるまでが仕事。途中で投げ出す事は、一番その子に失礼なんじゃないのかい?」
 最後まで聞いてか聞かずか、紫陽花はガタンと椅子から立ち上がった。虚ろな影は消え失せ、凛とした光を取り戻している。
「――船着き場までは南に真っ直ぐだよ。きっと竹織も居るはずさ」
 紫陽花は青色の携帯を握りしめた。
「アニス。ありがとう」
 手短に礼を言うと、一目散に外へ駆けて行った。込み合う入口付近を縫うと、何人かの死神が振り向いたり茶化したりしてきたが、気にも留めなかった。
 奇怪な運命を自分が受け入れれば、丸く収まると思っていた。言われるがままに死神業務をすればいい、ついでに電話の実態を掴めれば、世間を騒がすオカルト現象を暴けるかもしれないと思っていた。
 私はなんて馬鹿なんだろう――紫陽花は歯軋りをした。
 あの時竹織が紫陽花に向けた侮蔑の眼差しの意が、今なら痛い程分かる。何でも出来る神など、神じゃない。都合良い権力の乱用など運命を捻じ曲げるだけだと一番よく知っているのはこの私じゃないのか……!
「わあああああああああああああああああっ!!
 叫びをあげ、紫陽花はすれ違う人々を吹き飛ばす勢いで走り抜けていった。
 残響を聞き浸りながら、アニスは立ち上がってキャラメル色の髪を払った。仄かに感じる夏蜜柑の香りが朝の柔らかな日差しに溶け込んだ。
「――やれやれ。あの姿、誰かさんにも見習ってほしいもんだねぇ」
 マントを翻し、アニスは優秀な油売りの元へ向かっていった。
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