9:親鍵

文字数 6,654文字

 白い巨木は脈打つように上へ伸び枝を広げた。竹織(たけおり)は幹のあちこちから生えてきた腕に四肢を縛られ身動きが取れなくなっていた。下には禍々しい色の空気が渦を巻いた獄門(ごくもん)が口を開けている。
「どうだい、そこからの眺めは? 最期に見る景色としては素晴らしいだろう?」
 (はりつけ)にされた竹織を見下ろして、死神王(ししんのう)はぐぐもった笑いを漏らした。竹織が鬼の目つきで睨み上げる。
「貴様……俺を堕とす気か……!」
「どうした、そんな殺気立った顔をして? 見合った理由は充分なはずだがね。――まあ折角だ。堕としてしまう前に、余興のひとつでもやってもらおうかな」
 死神王が嫌らしく目を細める。その視線の先から、地獄手の籠に乗った紫陽花(しょうか)が近づいてきていた。
「――!? あいつに何をしたッ!!」竹織の顔色が変わった。
「そう急くな。何もしていないよ――まだ(・・)、ね」
 死神王の隣にひっそりと立っていた紫苑(しおん)が高々と杖をあげた。事態の読めた竹織の目が愕然と見開かれていく。
 白い籠がゆっくりと上昇してくる。ようやく間近になった竹織の姿に紫陽花は声を張り上げた。
「チコ! 大丈夫!? 待ってて、今そっちに――」
「馬鹿ッ! 来るな! これは罠だ! 退け――――ッ!!
 竹織が鬼気として怒声をあげる。
 死神王は濁った眼を狂気に踊らせて、堪能する口調で囁いた。
「さあ……。君の鳴き声を聴かせておくれ。いい冥途の土産になることだろう」

 バリバリッと皮を引き剥がす生々しい音を立てて地獄手は電流をまき散らした。





「――ぎぃいイあああアァあアぁああアアぁアッ!!





 竹織の断末魔の叫びが轟いた。

 体内が沸騰したように竹織の目や口から血が溢れ出す。光沢の美しい銀色の鎌は刃の先から錆色に染まって黒ずんでいく。
「チコッ!!
 耳をつんざく竹織の悲鳴に思わず耳を塞いだ、直後。
 頭を鷲掴みにされたような激痛が走り、紫陽花は悲鳴をあげてうずくまった。
 何重にもエコーがかかった声が、抱え込んだ頭をこじ開けるように襲いかかる。


――竹織を斬りなさい――


「だ……だれ…………?」
 必死に声を振り払おうと紫陽花は固く目を閉じて頭を振る。周りの音を一切遮断してしまう声は氷のように冷たかった。全身に力を込めて息を吐き、なんとか再び目を開いた時、咆哮とも呼べる叫び声が頭を突き破って轟いた。
 全身血まみれになった竹織と、その血を吸い上げてみるみる成長していく骨の巨木が、唸りをあげて空気を震わせている。

 紫陽花の思考が、体が、止まった。


――あなたをここへ連れてきたのは誰です? さあ、今こそ復讐するのです――


 紫陽花の目が焦点を、光を失った。綺麗な青色の瞳がくすみ、紫色に変わっていく。
「あれは……〝思操(しそう)〟……!?
 結界の中でアニスが掠れた声で呟いた。杜若(もりわか)が苦虫を噛むように眉をひそめた。
「紫苑の神業(かみわざ)――他の意思を乗っ取り操る力じゃったか……まずいのう。相方同士は武器を通じて連動しておるようなもんじゃ。竹織が受けておる地獄気流が〝思操〟で綻んだお嬢ちゃんの魂に流れ込んでしもうとる。生霊のお嬢ちゃんじゃ長くはもたんぞ……」
「そんな……! このままじゃ……」
 杜若は口を真一に結び、じっと紫陽花を見つめた。まるで崖の上で子を待つ虎のような眼差しで。
「――眼前(がんぜん)こそ(まこと)。邪念になど惑わされるな。お主が本当に(わし)の……ならば…………!」
 紫陽花を乗せた籠は二人を向い合わせると停止した。自我を失い、こけしのように見つめてくる紫陽花の虚ろな瞳が、今や毒々しい紫色に染まっている。
 竹織は息を荒げ、バルコニーを睨んだ。
「――こいつ……はっ、俺の好きにしてい……はっ、ずだ……! 何故邪魔をする……」
「邪魔だなんてとんでもない」死神王は短く笑った「君が彼女を生き返らせようが、大事に大事に守り抜こうが、私には関係のないことだ。二言はない。だが、勘違いしないでくれたまえ。私が彼女に一切手出ししないなどという約束はした覚えがないよ?」
「貴様……ッ!!
「さあさあ、せっかくの機会だ。無駄に出来ないだろう? 死神一人の命があれば彼女は元の世界へ戻れるそうじゃないか。なら話は早い。君は彼女の仇でもある。本来なら私が直々に手を下すところだが――君も、短いながら連れ添った相方の手で裁かれるなら本望だろう。譲ってあげるよ」
 紫苑が杖を一振りする。それを合図に紫陽花が両手で大鎌を握りなおした。鎌からはパリパリと黒い電流が絶えず走っている。
「言い残したことがあるなら今のうちに言っておくといい」
 促すように小首を傾げて死神王は微笑んだ。その揶揄(やゆ)した顔を握り潰したい衝動は、紫陽花に視線を戻した途端一瞬で吹き飛んだ。
 紫色の瞳がみるみる赤みを帯び始めていたのだ。黒々とした瞳孔が、上塗りするように広がっていく。
 死神王は紫陽花を生き返らせる気など最初からありはしない。竹織を始末するための道具に過ぎず、それが終われば捨てる気なのだ――地獄という名のゴミ箱へ。
 竹織は首元に巻きついていた地獄手を噛み砕くと、渾身の力を込めて叫んだ。
「目を覚ませ、この馬鹿!! お前が言ったのだろう! 俺を殺しても意味がないと! このままではお前……本当に死んでしまうぞ!!
 地獄手が一斉に竹織の体を締め上げた。何かが折れる音がはっきりと響き渡った。
 紫陽花の手がゆっくりと上がる。まとわりついている黒い電流が切っ先から鎌を黒ずませていく。
「しっか……ぃ、しろッ! お前はっ……こんなことで……あ、操られるクチではない、はずだ……! 俺を斬って、後悔す、るのはお前のほ……だろ……それは、お前にも……分かっている……じゃな……のかっ……!」
 竹織は喘ぎながら言葉を絞り出す。死神王は腹を抱えて笑い出した。
「あっははははは! これは傑作だ! さすがの君でも今際の際には命乞いか。安心したよ。君も人間だったということだね!」
 直後、バツン! と断線したように巨木全体が瞬いた。悲鳴すら断たれた竹織の頭がぐったりと落ち、完全に錆びついた鎌を握っていた手がじわりと開いた。その小さな丸顔には溢れ出た端から一瞬で乾いた血の膜が小さなヒビをいくつも作っていた。
 体中が液体になったようだ。感覚を失い、もう呼吸する動作すら思うようにいかない。
 遠のく意識。沈んでいくようにゆっくりとすべての力が抜け落ちていく。


 生きることを選んだのはお前だ。

 俺を斬りたくば斬ってかまわない。それだけの事をしたのだから。

 だがこれだけは忘れるな――


 お前を、二度も殺させやしない――――ッ!


「……充分だろう」大人しくなった竹織を蔑んで、死神王が静かに告げた。「これ以上は私も心苦しい。せめて最期は安らかに逝くといい」
 紫陽花が、持ち上げた鎌を頭の後ろまで振りかぶった。
「いかん……!」杜若が表情を強張らせた。ワイン色にどっぷり染まった紫陽花の瞳が鮮明になっていく。「もう……間に合わんぞ……ッ!」
「アジ――――――!!
 アニスが叫ぶと同時、紫陽花が大鎌を振り下ろした――

 その時だった。




『――――――――――――♪』




 空気が、止んだ。

 紫陽花がピタリと動きを止めた。その切っ先は少年の喉元の直前で鈍い光を放っていた。
「……う……た…………?」
 微かだが滑らかなメロディが聞こえてくる。透き通る心地良い歌声が、そよ風のように肌を掠めて駆け抜けていく。
 すり鉢状の闘技場はたちまちコンサートホールとなった。柔らかかった旋律は部屋中に反響して厚みを帯び、合唱のような力強さで空気を震撼させた。
 結界に覆いかぶさっていた地獄手たちが、まるでナメクジに塩をかけたように一斉に悶えだした。みる間に糸ほどに痩せていく地獄手は、その形を保てなくなるとぐにゃりぐにゃりと崩れていく。やがて結界の上に降り積もり、遂には蒸発して跡形もなくなってしまった。
 すっかり見晴らしが良くなった結界を、新たに地獄手が襲うことはなかった。
「……これは一体……?」
 呆然とするアニスの隣で、杜若はひっそりと口元を綻ばせた。
「――困ったもんじゃのう。まったく……人の言うことを聞かん奴め……!」
 今や歌は獄門の唸りを凌駕していた。涼やかなメロディが部屋中に満ちていくのが見てわかるようだ。脈打っていた巨木も幹と太めの枝を残して枯れ落ち、成長を止めていた。
「紫苑! 何してる!?」動かなくなった紫陽花に苛立ちながら死神王が怒鳴った。
「わ、分かりません……! 意識下に入る直前で何かに遮断されてしまうのです……!」
 得体の知れない力に押し返され、集中力の途切れた紫苑はパニックに陥っていた。蒼白になった顔中から汗が噴出し、乾ききった唇は彼女の周りで燃え盛る炎に負けないほど青くなっている。
 死神王は怒りに任せてバルコニーを叩いた。その拍子に、ジャラジャラ煌めく装飾品がいくつか割れ落ちた。
「……この力は……あいつか……ッ!!
 柔らかな気配に、竹織はゆっくりと目を開けた。
 包み込まれる暖かな存在をすぐ隣に感じる。竹織の意識がたちまち奮い起こされた。
 血眼になって周囲を見回す死神王がそれに気づく様子はない。竹織は再び鎌を掴もうと身をよじった。
 その時、首元の鎌が離れ、紫陽花が突然頭を抱えて獣のように叫びだした。地獄手と同じ、悶え苦しむ叫び声。彼女の中で力の反発が始まったらしい。鎌に近いところからその体がみるみる肥大化していく。
「――させるかああああああっ!!
 竹織の手が力強く鎌を握りなおした、直後。
 何かが鎌にかち合う感触と同時に、コォンと木琴の柔らかな音が響いた。錆びついていた竹織の鎌はたちまち洗われ、しなやかで鋭いその輝きを取り戻した。
 電流を迸らせていた紫陽花の大鎌も弾けるように黒ずみが消え、鏡のような澄み切った様相を呈した。膨れ上がっていた紫陽花の体は正常に戻り、黒い影が抜け出ていった。
 力なく崩れる紫陽花に、歌を止めた声が鋭く呼びかけた。
『――紫陽花様! しっかりしてください!』
 聞き覚えのある凛とした声に、紫陽花はハッと目を覚ました。
 青色の瞳がきらりと光った。
「……あれ……? 私…………」
 呆けたまま呟く紫陽花に、控えめだがはっきりとした声はピシャリと告げた。
『それを……コートを放ってください! 急いでッ!』
 初めて、自分の適応力の良さに感謝すべきだと思った。
 気づいた時には、紫陽花は迷うことなく着ていたコートを脱ぎ、放り投げていた。
 吸い寄せられるように高々と舞い上がったコートが、まるで人が態勢を変えるようにひとりでに向きを変えて立ち上がった。それからバレリーナよろしくくるくると回ると、中に空気を入れ込んでいく。
 袖が、裾が広がり、襟元のボタンが止まった。完全に人を包む形を成したコートの先から、半透明の手が、足が、首が生えるように現れ、そのおぼろげな存在を確固たるものにした。
 巨木の頂上に、白いおさげ髪の少女がふわりと降り立った。握られた巨大な鍵は氷のように滑らかで透き通り、その頭部には針が四つ回る羅針盤がはめ込まれている。
「リリーさん……!?」紫陽花の声が微かにうわずった。
 リリーは静かに背丈を超える鍵を松明のように掲げた。羅針盤の針がキュルキュルと忙しなく右に左に回転し、やがて四つ全てが真上に来たところでカチッと鳴った。
『我が名に従え。一境分かつ(しるべ)の光よ!』
 直後、鍵鎌から放たれた一縷の光の筋が巨木を貫いた。指先程度の小さな穴から獄門の向こう側が見える。虫眼鏡に太陽光を通したように、穴の縁から焼けていく地獄手はメキメキと音を立てて亀裂を走らせた。
 リリーがその細い腕で鍵を回す。ずりずりと重々しい音をあげて獄門は閉じ、在るべき世界と断絶された地獄手はみるみるしわがれて破裂した。
 砕け散った地獄手の欠片が木屑同然に降り注ぐ。開放された竹織と紫陽花を結界に包むと、静かにフィールドへ下ろしてやった。
『――お久しゅうございます。大王様』
 極寒の鉄壁(メタルノース)で紫陽花の前に立ちはだかった時と同じ、粒だった声音でリリーは言った。彼女がくっきりと話すだけでこんなにも怒りが伝わるのだと、紫陽花は身震いした。
「……今日は珍しい客人が多くて嬉しいよ」死神王は忌々しいものを見る目つきで少女を蔑んだ。「よもや、こうして君と再び話が出来るなんて……夢のようだ」
『ええ。私もまさか、今更幽体離脱を経験することになろうとは思いませんでした』
 負けず劣らずの冷たい視線を微塵も逸らすことなくリリーは言い放つ。普段の彼女からは想像できない威圧感が、その小さな体から溢れ出ていた。
「幽体離脱か――なるほど」
 ちらと背後を振り返り、死神王は鼻先で小さく笑った。
「君も夏恵(かけい)の手駒というわけか。やれやれ。相変わらず手癖の悪い女だ。〝万鍵(ばんけん)()()〟たる君を味方に付けられては、私も黙ってはいられないね――」
 死神王が腕を突き上げようとした、その時。
 リリーがランチャーのように鍵を担ぎ、間髪入れず死神王目がけて光の弾を撃ち込んだ。その所作は一流の狙撃手を思わせる速さで、死神王でさえ寸でのところで両腰に差した対になる双鎌を抜き、組み止めるのがやっとだった。
『私は〝親鍵〟――これ以上、門は開かせません!』
「……フン。やはり君を野放しにすると厄介だな。だが――」
 死神王は光弾を払い流すと、一瞬で数メートルの間合いを詰めた。ひるんだリリーの動きがほんの一瞬停止する。
「察するに、そのコートが憑代なのだろう?」
 ニタリと笑って振り上げられた鎌をリリーは間一髪で後ろへ飛び退いた。だが、広がるコートの裾から真っ直ぐ大きな亀裂が一本走り、半透明のリリーの姿が一層希薄になった。
『……っ!』
「その反射神経は流石だ。――だが、あちらはそうはいくまい?」
 不適な笑みで見下ろした先には紫陽花と竹織の姿があった。その二人に、死神王が受け流した光弾が一直線に向かっている。
『竹織ッ! 紫陽花様ッ!』
 血相を変えて二人の元へ向かおうとするリリーの行く手を阻むと、死神王は少女の腹に鎌の柄をぶちこんだ。姿こそ投影のようだが、コートの中には確かに実体があった。
『あぐっ……!』
「さあ、子供は帰って寝る時間だ」
 首元に鋭利な切っ先が迫る。リリーは固く目を閉じた。



 バキッ!!



 なにかが掠めていく風を頬に感じ、リリーの体はふわりと宙に浮いた。
 遠くでくぐもった爆音が轟き、部屋が遠吠えのように揺れた。しばらくして鼻を突いてきた匂いで、それが砂煙だと気づいた。
 ゆっくり目を開けると、リリーは傷だらけの逞しい腕に抱きかかえられていた。
「――争い事には向いとらんと言っておるじゃろう。自覚せい」
 角ばった拳を振り抜いていた杜若がぼそりと言った。フィールドに殴り落とされた死神王が巻き起こる砂煙の中で立ち上がり、こちらを鬼の形相で睨んできていた。
「……保護者が横槍とは感心しないな」
幼子(おさなご)を本気で殴るお前さんも如何なもんかのう?」
 穏やかな口調と裏腹に、その目は射殺してしまいそうな鋭さを放っていた。
 砂煙が晴れると、この一瞬で起きた事の凄まじさが露わになった。
 フィールドには真新しいクレーターが二つ出来、そのひとつに死神王は立っていた。もうひとつはリリーの光弾によるものらしく、深いすり鉢状に抉れているが、そこに紫陽花と竹織の姿は見当たらない。
 青ざめるリリーの胸中を読んだように、ずんぐりした影が静かに杜若と肩を並べた。
 その姿に死神王は眉をあげ、リリーは涙声で小さく驚嘆した。

「――いやあ。神様の力ってやっぱりすごいですねえ」

 紫陽花と竹織を抱えた緑都(ろくと)が、他人事のようにぼやいて微笑んでいた。
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