2:王様に一番近い人

文字数 7,282文字

 紙筒の数がようやく半分になった。
 四隅をピンで固定し、歪みが無いか一歩下がって確認する。もうこれを一体何百回続けただろうか。紙と一緒に時間もごっそりと減った。
 紫苑(しおん)は紙筒の入った籠を手に取ると次の階へと移動した。
 掲示板に貼り出す告知紙は一階分毎に筒状に纏められている。とは言え、掲示場所は一階だけでも何十ヶ所とあり、それら全てこうして手作業で張り出さなくてはならない。実に骨の折れる作業だ。
 下の世界は技術革新だのなんだの随分便利な世の中になっているが、ここは何百年と昔の人間達が住む世界。利便性ばかりを追求するわけにもいかず、アナログもそう簡単には手放せないのが現状だ。
 ましてこの広さ……紫苑は深いため息を吐いた。
 階段にも掲示板があるせいで、この作業の間、エレベーターは使えない。一人でただひたすらに歩き回り一枚一枚を貼っていかなくてはならないのだ。無論、どんなに頑張ろうとも半日はかかってしまう。
 ぐるぐると渦を巻く階段にヒールの甲高い音が虚しく響いた。
 各階の間に位置する少し開けた踊り場に掲示板はある。その前では死神が二人、他愛ない話に花を咲かせていた。だが、紫苑の姿を見つけるとたちまち会話を止め、深々と頭を下げた。
 参ったなあ、と紫苑は眼鏡を抑えた。
 秘書とは王に次ぐ権威の持ち主。会った際は敬意を示すのが常識とされている。今日もこんな場面に幾度となく遭遇してきたのでいよいよ頭が痛くなっていた。上に立つのも楽ではない。
 紫苑は手早く掲示物を取りかえると、脇に小さくまとまって静かに終わるのを待つ二人に礼を言って、そこから逃げるように次の階へ出た。
 古びた淡い香りが出迎えた。この階はまるごと図書室になっている、いつ来ても静かな空間だった。他の階に比べて天井が高く、窓も大きくて開放的だ。迷路のように並ぶ本棚は天井までそびえ、あらゆる書物がびっしりと詰まっている。高所の本を取るために使う小型の手漕ぎゴンドラがキイキイと小さく鳴いていた。
 紫苑は廊下の木製ベンチに腰掛けると長い息を吐いた。
 私もすっかり独りになったなあ――自嘲的な笑いの中に幾分かの寂しさが含まれていた。
 王の秘書になる前はバリバリの現役で鎌を振るっていた。相方はもちろん、親しくしている友人だって沢山いた。死神なんて退屈だという人もいたけれど、そう感じたことは特に無かった。実績も優秀、生活は至って充実していたのだ。
 けれど、秘書を任命されてからは、それこそ天地が返ったように誰も近寄って来なくなった。塔の上層部に入り浸り、滅多に公の場に出なくなった。たまにこうして下りてくると、周囲は一旦足を止め、頭を下げて通り過ぎるのを待っている。その中に、かつての相方や友人達の姿を見た時、自分の置かれた立場をようやく理解した。
 身分の壁は思った以上にずっと高く厚いのだと。
 彼らは一体どんな気持ちでこの空気を過ごしているのだろう? そう考えると、未だに胸が張り裂けそうになる。
 本音を言えば、前の生活に戻りたい。それが叶わなくとも、今こうして地道にしている作業を他愛ない話をしながら一緒にやりたいだけなのに――。
 叶わぬ夢だ――そう頭を振った時、遠くから呼びかける声がした。
 顔を上げると、視線の先に一人、こちらに向かってにこやかに手を振っている。
 今日は人と会う予定は一件もなかったはずだが――歩み寄ってくる人物が誰か分かると、紫苑は罰の悪い顔をした。確かに誰か手伝って欲しいとは思ったが、こいつは願い下げだ。
「ここに来れば会えるような気がしていました」
 愛想良く会釈すると、緑都(ろくと)は「隣いいですか?」と訊ねた。
「……駄目だと言ったらどうするの?」
 明らかに嫌悪を抱いているのが分かる口調だったが、緑都は全然気にしていないようでケラケラと笑った。
「相当お疲れのようですね。良かったらコレどうぞ」
 手にした缶コーヒーを差し出すと、紫苑は目を丸くした。
「これ、君が飲むために買ったんでしょ?」
「僕のはこっち」緑都は手にしたもう一本を揺すって見せた。「疲れた時は、柔らかい味が一番ですよ」
 差し出された缶を訝しげに睨んでいたが、緑都がさらに近くに持ってきたので渋々受け取った。
「なんで二本も……」
「言ったでしょ。会える気がしたって。だから用意しただけですけど、なにか問題ありました? ――ああ。僕は甘いのダメなので」
 そう言って緑都は自分の黒い缶を開けた。
「大丈夫。毒なんて入ってませんよ。心配でしたら毒味してみせましょうか?」
 警戒の糸を切らない紫苑をなだめるように緑都はやんわりと申し出た。紫苑は疲れたため息をついて申し出を断った。
「こんなので釣れたりしないわよ」
「あはは。意外とお茶目さんだ」
 紫苑はそっぽを向いた。渡された缶コーヒーを開けてぐいと飲むと、キャラメルの甘い匂いが鼻をくすぐった。
 この男には調子が狂う……紫苑は眉間にシワを寄せた。
 緑都に会ったのはつい数日前のこと。書類をまとめるべく図書室に来た時だった。人気(ひとけ)の少ない時間帯に熱心に読みふけっていたのを覚えている。いつも通り奥まった席を陣取っていたら、いつの間にか斜向かいに座っていた。本から一切目線を逸らさず、緑都は独り言のように語りかけてきた。紫苑も最初こそ警戒の眼差しを向けたが、すぐに作業に取りかかった。それからお互いぽつりぽつりとながら話をした――のがいけなかった。ほんの一瞬、話の流れとは言え、うっかり【霊殖(れいしょく)】の存在を露呈してしまったのだ。
 結局緑都は最後まで目を合わせなかったが、去り際に「貴重な話が聞けて良かった」と言われ、不覚だったと思い知らされた。
 あれほど情けない失態をすること、よもや繰り返すなど、王に仕える身としてあるまじき事態だ。しっかりしなくては――紫苑は毅然として緑都に言った。
「今日も何か用かしら? 霊殖の事を聞き出すつもりなら残念だけど話す気は無いわよ」
「ええ、いいですよ。興味無いですから」
 即答した緑都に、紫苑は一瞬面食らった。
「……嘘ね」
「じゃ、言い換えます。あなたと普通にお話したかっただけなので、聞けなくてもいいんです」
 緑都は屈託なく微笑んだ。あまりにもさっぱりした受け答えに紫苑は口を噤んだ。緑都は缶を脇に置くと、黄色みの光を放つ細かい装飾が煌めいたシャンデリアを見上げた。
「この前、クラスメイトに会いました。御存知でしょう? 栗栖(くりす)紫陽花(しょうか)。僕、同じクラスだったんですよ」
 紫苑は黙って視線だけで頷いた。栗栖紫陽花は【生き狩り】の被検体だ。生前の人間関係も、ここでの活動状況もすべて把握している。
 緑都はゆっくりと語り始めた。コンタクトのような深紅の瞳には年齢に似つかわしくない哀愁が満ちている。
「僕は彼女の事が好きだった。彼女はいつも輝いていて、僕にとっては雲の上の人だったんです。どうしたら彼女に手が届くだろう、僕と彼女は何が違うだろう……と、あれこれ考えました。でも、いくら勉強が出来ても、性格や素行が良くても、彼女に近づくことは一度も出来なかった。届かないのなら、僕自身が届かないところへ行ってしまえば何か分かるかもしれない――だから僕は自分でここへ来たんです。結局、彼女にあって僕に無かったのは『生への執着』だったんでしょうね」
 そう言ってはにかむ姿は年頃の男子らしい振舞いだと思う。言っていることがこれほど捻くれていなければ、恋愛物語の主人公に抜擢出来るに違いない。
 紫苑は缶をくわえたまま、退屈そうにそれを眺めた。
「……変わった子ね。死ぬ事を恐れないなんて」
「そうですか? 僕からしてみれば、いつかはやってくる死をどうしてそこまで恐れるのかが理解し難いです」
 紫苑の顔色が変わった。それまで相槌程度に流していた会話を、全神経を注ぐようにして聞き出した。
 嫌な感じがする……。
 緑都自身は友人と他愛ない話をするように冗談めかした軽い口調だった。だが、心地よい声に乗せられる真っ直ぐな一言一言が妙に鳥肌を立たせてくる。
 似た雰囲気を、紫苑は誰よりも知っていた。
「……君は大王とよく似ているのね」
 緑都は少し驚いた様子で紫苑を見た。
「身分を気にしないところも、恐れる事の無い精神力も、よく似ているわ」
「あはは。それ喜んでいいんですよね? 僕まだここに来たばかりで、王様のこともよく知らないんですけど」
 紫苑は眼鏡を上げ直してコーヒーを口に含んだ。相変わらず笑みを湛えたままの緑都を目の端に捉え、深刻な顔つきで考え込んだ。
「――死神王(ししんのう)様って、どんな方なんですか?」
 間をつなぐようにコーヒーを啜りながら緑都はのんびりと訊ねた。
「……そんなの聞いてどうするのよ?」
「そこまで言われて気にしない程、僕、変人じゃないですよ」
 胡散臭げに見つめていたが、紫苑はしばらく目を泳がせてからぽつりと答えた。
「本音を言えば、あと一時間後には私はこの世界から居なくなっているでしょうね」
「おやおや。王様の側近からそんなお言葉が聴けるとは」
「消されたくなければ盾突かないことよ」
「ふふ。じゃあ、消して欲しければ盾突けばいいんですね?」
「…………」
 馬鹿にされているのだろうか? 悪意を特に感じないことが逆に恐ろしい。この笑顔はどこまでが本気でどこまでが冗談なのだろう? 流石にひとこと言ってやらなくてはと振り向いた時だった。
 冷淡で綺麗な緑都の横顔に、紫苑は思わず息を呑んだ。
 緑都は背筋をピンと伸ばして腰かけたまま、のっぺらぼうのような顔で廊下を行き来する人の流れを目先で追いかけていた。
「……単純と従順は近しい」
「え?」
 秘書も視線を辿って廊下へ目を向ける――見なければ良かったと後悔した。
 こちらに気付いた死神達が皆、事前に打ち合わせでもしたかのように同じ行動を取っていた。一瞬驚いた様子で慌てて足を止めると、深々と頭を下げ、足早に去って行く。
「面白いですね。皆さん、まったく同じ反応をしていく」
 興醒めだと言わんばかりに淡々と緑都は呟いた。
「……皆、私と会うとああしていくのよ。君が特殊なだけ」
「ええ、知ってますよ。あなたも大変ですね。僕が同じ立場だったら耐えられないな」
 一メートル以上の不自然な距離で、その場の死神達の頭がモグラたたきのように次々と下がっていく。そのたびに紫苑は頭をあげるよう促した。
「……仕方ないわ。上の身分になるっていうのはそういうものなんだから。力を得る代わりに、今まで当たり前だったことをどんどん失っていくのよ」
 紫苑に挨拶をしていく死神達は、隣に居る緑都に異端の眼差しを向けて去っていく。緑都は退屈しのぎにその数を数えていた。
「身分なんて所詮、力任せに飼い馴らすための道具でしかないでしょう。あんなもの、時間の流れにかまけて変化を望まなかった、ただの怠惰の結晶だ。勝手に押しつけて、代々続くだの伝統だの綺麗事を並べて正当化しているだけなんですからね」
 あっという間にその数は二十を超えた。人通りも衰えそうにない。緑都はうんざりしたように姿勢を崩して、数えるのをやめた。
「……本当に変な子。そう思うなら死神なんてならなきゃいいのに」
「そんなあなたも相当なお節介ですね」
「君に言われたくないわ――内原(うちはら)緑都」
 紫苑は口調を強めた。緑都はふっと頬を緩めると、残っていたコーヒーを飲み干した。
「そっか。試験官さんから僕のこと聞いているんでしたね。なら、もう御存知でしょう? 僕は自分の存在を消したいだけです。力だの身分だのは正直興味無い。ここにはその方法を探すために来たようなものですよ。まあ、同じこと試験官さんに言ったら思いきり断られてしまいましたけど」
 参りましたねえ、と緑都はへらっと笑った。
 やはりこの男は注意を払わなければいけないようだ。あの竹織(たけおり)にまで話を平然と持ち出すくらいだ。言っていることはどうやら本気らしい。他人に害を与えようとしているわけではない分、差し迫る危険因子ではないが油断は出来ない。
「誰の記憶にも残らない道を自ら選ぼうだなんてどうかしているわ」
「それは僕の勝手ですよ。安心してください。叶うまでは大人しくしていますから」
「君、好きな子いるんでしょう?」
「生前の話ですよ。彼女とはもう世界が違う」
「随分と潔いのね。でも、寂しいじゃない。孤独なんて」
「そうですか? 気ままでいいと思いますよ」
「人知れず逝くことがそんなに素敵? 君も人の子でしょう。最後の最後くらい誰かに見届けてもらいたくないの?」
 途切れなく続いていた熱湯と冷水のような言い合いが急にピタリと止んだ。緑都がキョトンとした顔でこちらを見つめている。
「……なに?」
 沈黙に戸惑いながら紫苑が訝しげに訊いた。それが引き金になったように吹きだすと、緑都は声をあげて笑いだした。
「なっ……!?
「ほら、これだから身分なんて馬鹿馬鹿しいんだ」緑都はうっすら浮かんだ涙を指先で拭った。「秘書たるあなたの望みが『見届けてもらう』だなんて可愛らしいじゃないですか」
 相当ツボに入ったのか、終いには声を押し殺そうとしないといけなくなるほど笑い続けた。紫苑がたちまち赤面していく。不意に見せられた緑都の純粋に笑う姿に、不覚にもどきっとしてしまった。
 笑いを落ち着かせるべく深呼吸を繰り返して、ようやく緑都はいつもの笑顔に戻った。
「確かに聞きましたよ。その時は僕が見届けて差し上げます」
 開いた口が塞がらないとはこのことか。紫苑は慌てて残っていたコーヒーをぐいと飲みきると「作業に戻るわ」と逃げるように言った。
 籠を手に立ち上がった紫苑に続いて立ち上がると、緑都は空になった缶を受け取った。
「素敵な時間でしたよ。お話出来て楽しかったです。秘書さん」
「紫苑よ。……どうあれ、君はもう少し身分をわきまえるべきだわ。内原緑都」
「御助言ありがとうございます。紫苑様」
 綺麗に一礼する緑都を紫苑は憎々しげに一睨みした。踵を返して「コーヒーごちそうさま」とだけ告げると、さっさとその場を去っていった。

  *  *  *

 今日は風が強い。冷たい風は頬を叩くように掠めていく。いつもなら幾人かが談話している庭園も、この突発的な風のせいなのか誰一人見当たらない。眼前に広がる緑色は随分と殺風景な感じがした。
「――アラ。どうしたの、たそがれちゃって。何かあった?」
 振り向くと椿(つばき)が愉快そうな顔で立っていた。
「いえ別に。そっちも用は済んだみたいですね」
 緑都は手にしていたカフスを椿へ渡した。椿は爪の長い細い指で器用につまむと、コインのように弾きあげて掴み取った。
「おかげ様でね。どうだった? 王様の一番近くに居る人の印象は」
「面白い人でしたよ。それに――」緑都は目を細めた。「とても人情深いようだ」
 椿は満足そうに大きく頷いた。
「助かったわあ。アタシ、あんまり大っぴらに動ける立場じゃないから困ってたとこだったのよ。ありがとね」
「お美しい方の頼みですから。お役に立てたのなら良かったです」
 緑都は胸に手を当て一礼した。椿はクツクツと笑った。
「見かけによらず言うじゃない。気に入ったわ。ぼーや、名前は?」
「緑都と申します」
「オッケー、ろく坊ちゃん。良かったらもう少しアタシに付き合ってくれないかしら?」
「ええ、いいですよ。僕に出来る事なら」
 緑都は迷うことなく返事をした。
 椿は何か隠している――最初に会った時からそれは分かっていた。むしろ、堂々と「スパイ活動してみない?」と近づいてきたくらいだ。ここまでいくと実に清々しいものである。普通に考えれば関わらないのが得策だが、こうして面と向かってみると、警戒どころか好奇がどんどん沸いてくる。
 この人は自分と同じだと思う。世界に退屈している。だから変化を求め、楽しんでいる。そして、それを隠す気もさらさらない。
 緑都は椿が持ち掛けてくる話が楽しみで仕方なかった。
「嬉しい答えね。でも、強制はしないから、よーく考えて頂戴ね」
 椿は寄り添うように近づくと緑都の顎を指で持ち上げ囁いた。
「霊殖に、興味なあい?」
「――――!!
 緑都は目を見張った。椿は顎に添えた指を端正な輪郭に沿ってゆっくりと滑らせた。首伝いに喉元まで下ろすと、緑都の喉仏に爪を突きたてるようにしてピタリと止めた。
「承諾してくれたら、アタシが手解きしてあげるわ」
「……誘っているんですか?」
 緑都は低く唸った。椿は楽しくて仕方ないという爛々とした瞳で緑都を見上げた。
「ええ。誘ってるわよ? 猛烈にね」
 大柄な椿よりもさらに背が高い緑都だが、気を抜けばあっさり椿にのまれてしまいそうだ。緑都は平静を保ってクツクツ笑う椿をじっと睨んだ。肌蹴た服の間から見える白に近い肌色は異様な程艶やかだった。
 長い沈黙の後、緑都は目を閉じ、長い息を吐いた。
「……あなたには完敗です。こんな強烈なオファーは初めてだ」
 椿は緑都から離れ、腕を組んで颯爽と立った。
「アラ。最近の男が大人しいだけよ」
「耳が痛いな」
 苦笑する緑都に、椿はじれったそうに訊いた。
「それで、受けてくれるのかしら?」
「ええ、喜んで」
 緑都はお得意の柔らかい笑みを浮かべた。だがその笑みはすぐに失せ、代わりに底から這い上がる笑いが漏れだした。
「医者になるはずだった僕が被検体になるなんてね……。本当、滑稽で面白いよ……!」
 椿の目に、獲物を捕らえた光が宿った。
「快諾ありがとう。そういう潔い男、大好きよ」
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