10:桃翼のニケ

文字数 5,165文字

 知らせを受けて病院に駆けつけた時には、桃葉(ももは)はすでに息を引き取っていた。運ばれてきた時はまだ息はあったそうだが意識は無く、そのまま戻ることなく死んだと、松太(しょうた)から聞いた。
 試合が終わってからはチームの話し合いや取材で、結局長引いてしまった。(さくら)の携帯を代わりに取った(つばさ)が血相を変えてインタビュー中にも構わず飛び込んで来たので、チームメイトに断りを入れ、携帯と財布だけ掴んで病院へ急行した。
 移動するタクシーの中で初めて携帯を確認して、病院からの電話の前に一通の留守電が入っていたことを知った。午後三時二十八分。桃葉からの留守番電話はぜえぜえと呼吸を乱しながら叫びをあげていた。直後、桜が満塁打を打つ音が微かに聞こえて留守電は終わっていた。
 桜は涙をぼろぼろこぼしながら、病院に着くまで何度も何度も留守電を繰り返し聴いた。聴けば聴くほど、苦しそうでも聞こえていた息が、快音響く直前にふっつりと聞こえなくなったのが分かる。嘘であって欲しいと願ったが、球場に桃葉が居なかったことは紛れもなかった。
 病院に着くと集中治療室から移された先の部屋を案内されたが、まだ嘘かもしれないという思いを捨てきれずにいた。部屋に着き、動かなくなった桃葉の傍らですっかり泣きはらした松太の姿を確認して、ようやく現実だと知り、その場に崩れ落ちた。
 松太から、野球をしたこと、その時から様子がおかしかったこと、心配になって後から球場に来てみると倒れていたこと全てを聞いた。松太は泣きながら、自分がしっかり止めていればと謝ったが、松太の所為ではないことは桜にも解っていた。よもやそんなことはあるまいと思いつつ桃葉の着信履歴を確かめると、四日前に一件、今話題のあの電話が掛かってきていた。桜はすぐにリダイヤルしたが案の定繋がらなかった。
 信じてあげるべきだった。気づいてあげられなかった……。
 自責の念に狩られた奇跡の四番は一晩中泣き崩れた。

  *  *  *

 桃葉が死んで早三日。多忙な両親は葬式が終わると早々に仕事に出て行った。当の二人はもう数日休むと駄々をこねていたが、桜が無理矢理説得して仕事復帰させた。家に一人残った桜は遺品整理に取りかかった。
 もとより几帳面な桃葉はすべてのものを使い勝手が良いようにキッチリしまい込んでいたようで、遺品整理とは名ばかりで、恐ろしいほどする事が無かった。
 机にポツリと置かれた愛用のレコーダーは異様なまでに目を惹いた。再生してみると、十秒前後しかない無言のデータが十件以上も続いていた。よく聞いてみると、桃葉が息を飲む音が何度か聞こえた。無言データが二十件になろうかというところで容量の方が先に悲鳴をあげたらしい。最後のデータは五秒も無かった。結局そのまま諦めて、データ削除もしないまま出かけたというところだろう。
「まったく、ガラじゃないことするから……」
 目の奥が熱くなってきたので桜は口を噤んだ。元々抱え込んで引きずる性格なのは重々承知しているが、今回はとりわけ恨めしく思った。こんな事ではあと数日後に迫った全国大会で勝ち進める筈がない。桃葉の訃報はチーム全員が悲しんでいるのだ。何より桜が一番に立ち直る必要があるのは分かっているが、それが出来れば苦労しない。桜はため息をついて、頭を両手でポコポコ叩いた。
 玄関チャイムが鳴った。あまりの破裂音に驚いた拍子に、鈍い音がたつほど頭を思い切り叩いてしまった。
 頭をさすりながら玄関を開けると、ユニフォーム姿の松太が立っていた。
「松太くん?」
「……こんにちは」
 遠慮がちに立つ松太を桃葉の部屋に通して、氷がカラカラと踊るグラスを差し出した。光を反射したスポーツドリンクが虹色に輝いていたが松太は丁重に断った。
「遺品整理手伝いに来てくれたのは嬉しいんだけど、生憎私もお手上げなくらい綺麗で何もすること無いのよ」
「……すみません。急に来て……」
 差し出されたクッキーを松太はまたも丁重に断った。
「練習だったの?」
「はい。でも身が入らなくて……。無理言って早めに切り上げさせて貰いました……」
 桜と同様、それ以上に松太はショックを受けているようだった。恐らく食事も喉を通らないのだろう。少年はたった三日で随分とやつれていた。
 身近な人間の死は大人でさえ立ち直るのに何日とかかるものだ。小学生の彼にとって、傷が癒えるにはまだまだ時間と慰めが必要だ。桜は目を潤ませた少年を優しく抱きしめた。
 恥ずかしいのか、松太は必死に涙を堪えていたが、それでも堪えきれないものは嗚咽となって漏れた。桃葉とそっくりだ。桜は松太の柔らかい髪をそっと撫でて言った。
「泣きたい時は泣きなさい。松太くん、いつもはお兄ちゃんだから我慢する癖がついたんでしょう? たまには誰かに甘えてもいいんじゃないかな。辛かったらおいで。私で良ければいつでも話聞いてあげるから」
 緊張の糸が切れた。松太は抱かれるがままに顔をうずめてわんわん泣き出した。まだ変声していない松太の高い声が家中に響くのを桜は静かに聞いていた。
 木陰で冷やされた心地よい風が吹き込む中、聞いていたのは桜だけではなかった。
 松太が泣き止んだところで、桜が口を開くよりも先に、聞き慣れない声が二人に訊ねた。
「――気が済んだか?」
 低く淡々とした口調。部屋の入り口に一人の小柄な少年が立っていた。真夏だというのに銀縁の真っ黒いコートをすっぽりと着込み、臙脂のマントを羽織っている。整った顔立ちは艶のある銀髪でさらに引き締まり、その背には背丈ほどもある鎌を光らせていた。
「あ……あんた誰よ?」
 松太を庇うように手を伸ばして桜が訊き返した。不審者というレベルではないのは明らかだ。
「死神というやつだ」
 その答えに桜はますます身を固めた。桃葉の履歴を見た手前、すぐには否定しなかったが、死神と名乗る輩にろくな奴はいないだろう。本物だろうと偽物だろうと関係ない。とにかく今は、松太に何かあってはならない――ごくりと唾を飲む桜の後ろで、松太は目を丸くして銀髪の少年に魅入っていた。
「死神が何の用? 私達の命でも取りに来たっていうの? 桃葉みたいに!」
 桜は怒りに任せて叫んだ。会えるものなら会って殴りたいと思っていたが、今は松太を守ることが最優先だ。悔しさを滲ませながら桜は少年を睨みつけた。
「案ずるな。今日は別件で来ただけだ。もっとも、死亡予定でない者に姿が見える事自体特例だがな」
「さっきから何よ、ゴチャゴチャと……!」
「時間も無いことだ、簡潔に言おう。今日来たのは連れて行く為じゃない。連れて来る為だ。……ここからはお前が言え。これ以上俺が喋るのは伝わらんし時間の無駄だ」
 まるで隣にも誰かがいるように語りかけると、死神と名乗る少年の輪郭が歪んで薄れ始めた。
「ちょっと、まちなさ……!」
 身を乗り出しかけた桜の耳に今度はよく知った声が届いた。

「もうっ、竹ちゃんてば説明へたくそ!」

 金縛りにあったように桜は凍りついた。
 歪んで薄れていた少年の残像は徐々に輪郭を取り戻し、はっきりした姿に戻った。ただ一つ違ったのは、少年ではなく少女の姿に変わっていたことだ。見慣れたおかっぱの黒髪に白いワンピース姿の少女がその場にふわりと現れた。
「…………桃…………?」
 松太がぽつりと呟いた。瞬きもせず大きく見開いた瞳は、眼前の少女を確かに捉えていた。半透明にきらめく体を見て、桃葉は照れ隠しの笑顔を浮かべた。後ろに手を組んで華奢な体を揺らすように小さく跳ねた。
「えへへ、来ちゃった」
 舞い戻ったいたずらっ子は、赤くなった瞳を光らせ、笑顔の隅で少しだけ困った顔をしていた。
「あまり怒らないであげて。竹ちゃん、死神さんだけど、とってもいい人だよ。何だかんだ言って、あたしのワガママ聞いてくれたから、あたしここに来れたの」
 未だ状況を飲み込めず固まったままの桜に対して、松太は柔軟なほうだった。自身も信じ難いとは思っているようで、一言一言が注意深い。
「本当に……桃なのか……?」
「本物!」桃葉はずいっと顔を近づけた。「信じてくれないの?」
 不服にほっぺたを膨らませた桃葉を前に、松太は顔を赤らめた。
「――ま、信じられないのが普通だもんね。特にお姉ちゃんは」
 桃葉の言葉に桜は冷水を浴びたように覚醒した。
「だってそれは……!」
 先を言いかけて桜は口を噤んだ。大人になるにつれ、人間は良くも悪くも現実的になる。その結果桃葉は……。
 後を受けるように桃葉は言った。
「うん、知ってる。お姉ちゃんの所為じゃないよ。……あたしこそごめんね。電話……黙ってて。お姉ちゃんの大事な試合に影響しちゃいけないと思って、言わなかったの」
「今更……そんなこと……」
 桜の目から涙が溢れ出した。喧嘩したいわけじゃないが言葉がうまく出てこない。両手で顔を覆い、しゃくりあげる桜を、松太がオロオロしながら背中を擦った。
「お姉ちゃんの言うとおり、ガラじゃなかったからさ。結局作れなかったの、録音」
 桃葉は苦笑した。だがその顔はどこか晴れ晴れとしている。
「でもこれで良かったんだよ。だってあたし、お別れが言いたかったんじゃないもの。ずっと、応援したかっただけなんだって気付いたの」
 桜がはたと止まって桃葉を見た。松太も食い入るように桃葉に視線を注いでいる。
「二人とも、あたしのこと思ってくれるのはすごく嬉しい。でも、あたしの為だなんて思わないで。あたしは二人に、自分の為に全力で野球をやって欲しいの。これからもずっと、野球を楽しむ姿が見たい。その為ならあたしどこにでも行くよ! だってこれからは、どこにでもすぐに行けるし、すぐ真横でだって観ていられるんだよ? 最高の特等席じゃん!」
 桃葉は両手を広げた。こんなに嬉しいことは無い――少女は純真な笑顔に溢れている。
「松太、約束したよね。次の試合観に行くって。あたしちゃんと守るから、絶対勝ってよね! お姉ちゃんも――」
 目を閉じ、ずっと噛みしめていた思いを辿ると、自然と笑みが零れた。もう、十二歳の幼さが残る少女の影は無かった。
「――勝てるよ、絶対。あたしは信じてる。もう自由に野球が出来るんだもん。怖いものなんか無いもんね! あ、それでも調子悪くなったら言ってね。あたし、こっそり打球掴んで飛距離伸ばしてやるんだから! 一緒にトロフィー、取りに行こう」
 ふわりと桃葉のワンピースが揺れた。紛れて小さな羽が舞っていたのは見間違いなどではない。半透明な体の後ろから花びらのように舞い続けていた。そこには二人のよく知る桃葉ではなく――

 やんちゃな面影の無い、薄桃色の大きな翼を持つ勝利の女神(ニケ)が居た。

 金色の光に包まれた少女は、光を抱くように胸に手を当てた。
「それじゃ、もう行くね」
 桃葉はおもむろに言った。これ以上寂しさが募る前に戻ろう。名残惜しさを浮かべつつも笑みを絶やさない少女の姿は、徐々に空気と一体化し始めた。ゆらゆらと薄れていく視界の中、桃葉はぼんやりと考えていた。
 ちゃんと笑えていたかなあ……。
「……桃葉」
 桜の呼びかけに、桃葉は閉じかけた瞼を開いた。桜が顔を上げ、こちらを見つめている。赤く腫れた瞳を擦り、穏やかな面持ちで語りかけた。
「ありがとう。桃葉こそ、いつでも甘えに来ていいんだからね」
 桃葉の頭に、バットを振るったあの瞬間が蘇った。
 ずっと願っていたものを手にした、あの時間。
 ああ、そうか……。
 桃葉の目に涙が溢れた。
 いつもお姉ちゃんは待っていてくれていたんだ。あたしがワガママ言うのを。甘えるのを。あたしが自分で遠ざけてきた時間を、ずっと。
「もうっ。そんな子供じゃないんだからね……」
 強がって言った言葉も涙に紛れて消えていった。
 光を取り巻いた少女は、二人が見守る中静かに消えた。再び静寂を取り戻した部屋には、色のついた時間が流れ始めていた。
「……俺、今から練習に戻ります」
 松太は立ち上がり力強く言った。主が居なくなった部屋は再び静けさを湛えていたが、少年はこの数分で随分と凛々しくなっていた。
「そうだね。いつまでもじっとしているの、ガラじゃないし」
 桜も大きく伸びをして立ち上がった。潤んだ瞳は宝石さながらの輝きを放ち、目指す高みをしかと捉えている。
「桜さん、俺も応援してますから、頑張ってください!」
「松太くんもね!」
 吹き込む初夏の風は、球児たちの背中をそっと押していた。
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