5:死の電話
文字数 4,940文字
――きっとイタズラだよ。
ふと
風は一向に吹いてこない。だが、暑さなど微塵も感じなかった。感じる暇がなかった。ぞくぞくと悪寒が体中を走り回っていく。
「……出なければ……いいんだ……」
絞り出した声は自身が聞くのもやっとなほどにか細かった。魅入られたように画面を瞬きもせずに見つめ続けている――そうだ、そもそも出なければ関係ないことじゃないか。きっと桜の言うとおり、イタズラなのだから。
しかし、人間の心理は時に酷でそれを許さない――好奇心である。そして、体はこの電話そのものよりも、電話に出ないことの方に恐怖していた。
桃葉は意を決して目を閉じ、深呼吸をした。そして、携帯をゆっくりと耳元へ運び応答ボタンを押した。
電話の主は少しルーズな口調の女だった。おそらくは桜と同じくらいだと直感した。
「あ。やっと出た……じゃなくて。こんにちは。こちら、
どこかたどたどしいが綺麗に話す女はますます胡散臭い。桃葉は怪訝な顔をした。
「……はい」
女が小さく「良かったあ」と言うのが聞こえた。
「……あなたは誰?」
桃葉は訊ねた。イタズラ電話ならとっちめてやらなければならない。
「私達は死神です」
思いがけない答えに桃葉はあんぐり口を開けた。死神を名乗ってまでイタズラとは悪質極まりない。しかも単独犯ではないという。これでよく警察に捕まっていないものだ。
なんとか考えを巡らせてこの非現実的状況を現実的に変えようとしていた。だが皮肉にも、桃葉の鋭い知能は答えをはじき出してしまった。
捕まらないのは捕まえられないからじゃないのか? 例えば見えないとか……。
電話の向こうの女は読み上げるように言葉を続けていた。
「お気の毒ですが、あなたはあと四日以内にお亡くなりになります。何かやり残した事や言い残す事があれば、この間に済ませていただきます様お願いします」
目の前が真っ暗になった。噂がついに証明されようとしている。それも、自分自身で。
桃葉はソファーの背もたれに寄りかかった。もはや自分で立っているのがやっとだった。心臓がバクバクと鳴っているのが自分でも分かる。
これは夢だ。冗談だ。きっとイタズラに違いないんだ。
四月生まれのあなたは運命的な電話があるかも――?
今朝の占いが脳裏をよぎった。いつの日だったか、占いとは所詮気休めだと桜が言った。それには桃葉も同感だった。当たればよいよい、外れれば気休めだからと割り切れる。実体もなければ根拠もない至って不確かな要素でしかない占い。だが、時に残酷な結果をもたらすことも知らないわけではない。例えば、姉の誕生月の占い結果が実は自分に当てはまるとか。
もしも今朝の占いが、自分に当てはまるのだとしたら……。
今にも意識が遠のいてしまいそうな桃葉をよそに、電話の女はつらつらとテンプレートを読み上げていく。
「お亡くなりの際は私達が迎えにあがりますので心配は要りません。残された四日間をどうぞ有効にお使いください。それでは――」
…………あと四日以内、だって?
桃葉はがっちりと携帯を握り直した。
「待って!」
まるで対岸の人と会話する程に桃葉は叫んでいた。驚いたのか、女が相当迷惑そうに呻き声をあげた。さっきまでおぼろげだった桃葉の思考回路は嘘のように叩き起こされている。
「本当に、あと四日しか時間がないの!?」
桃葉は凄い剣幕で捲し立てた。心臓が早鐘の如く鳴っているのが分かる。電話の向こうで、女はすんなりと電話が終わらなかったことに動揺しているようだった。
「なっ……? 本当だって。さっきから言っているじゃない。その間に――」
「もう少しだけ……もう少しだけでいいから待って欲しいの! 週明けには全国に行けるの! お願い死神さん! 一試合だけでいいから、お姉ちゃんと……桜と全国大会に行きたいの!」
電話の女――
紫陽花は背後をチラリと見た。紫陽花に背を向け、泉に映る明塚町を眺めたまま微動だにしない
紫陽花は唇を噛みしめた。こんなに熱心で姉思いの子なのだ。最後の願いを叶えてあげたい。今の私ならきっとそれが出来る……。
ゆっくりと開いた口から、その言葉が放たれた。
「分かったわ。それじゃあ――」
頬に不自然な流れの風が掠め、黒い影を目の端に捉えたのはほんの一瞬のことだった。
「寄越せ!!」
直後、強烈な怒声をあげて竹織が強引に携帯をもぎ取った。拍子に突き飛ばされた紫陽花は悲鳴とともに倒れ込んだが、竹織には電話しか見えていないようだ。素早く電話口に出るときっぱりと告げた。
「それは出来ん。お前の死期は決まったんだ。如何なる理由があろうと延ばすことは許されない」
突如電話の相手が代わった事よりも、桃葉はその冷ややかな口調にじわじわとこみ上げるものを感じた。
「でも、今――」
「惑わせてしまったのは申し訳ない。俺が替わって謝罪しよう。だが、それとこれとは話が別だ。決定事項はどう足掻こうとも覆らん」
「ちょっと……!」
紫陽花が反論すべく起き上がったが、竹織が一瞥喰らわせるとたちまちその場に凍りついた。
混乱する頭を奮い立たせ、桃葉は静かに、そして確かめるようにゆっくりと言った。
「……あたしは、何年も延ばしてなんて言ってないのよ? 試合だって全部観れなくてもいい……初戦だけ……ううん、一回だけでいいの!」
「その通りだ。願う気持ちは分かる。だが、無理なものは無理だ。お前はあと四日以内に死ぬ」
最後の言葉に、込み上げていたものが爆発した。
「なんで……なんで出来ないのよ!? あなたたち死神なんでしょう!? 神様なんでしょう!?」
悔しかった。悲しかった。腹が立った。今こうして電話が繋がっているのに、自分はこんなにも何も出来ないのだ。見えぬ相手に頼むことしか術がないのだ。それでも、何もしてもらえない……。
いつの間にか、桃葉の目から大粒の涙が溢れていた。堪えようとするたびに嗚咽が漏れる。その声を、竹織はじっと聴いていた。
しばらくして竹織はおもむろに口を開いた。その口ぶりは変わらず淡々としていたが、刺々しいものではなくなっていた。
「……そこまで解っているなら、お前自身がどうすべきかも解るだろう」
「え……?」
「勘違いするな。俺達死神は所詮、死者の世界の神だ。お前達が人として世にある限り、願いを叶えられるのは自分自身、もしくは生者の世界の神だけだ。俺達じゃない。別世界の奴らの願いを叶えられるほど、神様なんてのは万能には出来ていない」
死神は自ら言葉を辿るように確かめるように、はっきりと言った。
桃葉は黙っていた。本に出てきた通り、死神とは冷酷だ。いきなり電話が来たと思えばもうすぐ死ぬと言われ、延ばしてくれと頼んでも、それは無理の一点張り。なんと憎たらしいことだろう。
だと言うのに――
どうして電話の方から哀しさが伝わってくるのだろう……。
「解ったら残りの時間を大切にしろ。無駄にするも有効に使うもお前自身だ。時が来たら俺達は迎えに行く、それだけだ」
端的に残りの用件を告げると、向こうはあっさりと電話を切った。
しばらくの間、桃葉は耳に当てた携帯を離さなかった。夢現のままリビングに立ち尽くしていた。
残りの時間を大切にしろ。
死神が言った最後の言葉が脳裏にこびりついて離れない。あまりにも素っ気なく言われたはずなのに反響するように頭の中に広がっていく。
桃葉はキッと顔をあげた。自分の部屋に駆け込み、手早く荷造りを済ませると、帽子を深く被った。
さっきの出来事が夢であって欲しいと思う。だが、夢だと割り切ってしまえば一生の後悔が残る――そんな気がした。
もう四日しか命が残されていないというのなら、まだ四日間あることを喜ぶべきだ。まだまだやれることはあるのだから。
白い日傘を手に、桃葉は紺碧の空の下へ繰り出した。
風は、それとなく吹いていた。
* * *
右わき腹に拳が炸裂した。紫陽花はゆうに五メートルは吹っ飛び、その体躯を地面に叩きつけられる他無かった。片手で軽々と紫陽花をぶっ飛ばした張本人は、怒りに息を荒げていた。
「この馬鹿がっ……!!」
拳に血管を幾重にも浮き上がらせたまま、竹織は吐き捨てるように言った。その深紅の瞳は血走って一層赤みを増し、虫けらを見るが如く紫陽花を卑下している。
「ここまで早々にやってくれるとは、俺の見る目は無かったようだな」
青色の携帯を紫陽花の目の前へ投げ捨て、泉へ向き直った。
口の中に血の味が広がる。痛みと恐怖に震える体に鞭打ち、紫陽花がようやく頭を起こした時には、竹織は底が見えるようになった泉で手を洗っていた。
「あんた、最低ね……」
芯のブレた声の主を竹織は横目で見やっただけだった。
「……それでも人間なわけ?」
「俺は死神だ」
「そういうこと言ってるんじゃないわよ……!」
地べたに這いつくばって噛みつくように紫陽花は喚いた。
「あんな……、小さい子の頼みひとつ聞いてやらないで……無慈悲にもほどがあるわ!」
「ほう……」
竹織の肩がピクリと動いた。
「小さければ何でも聞いてやるのが人の性だと?」
「だから、そんなこと言ってるんじゃ――」
「『ただ電話するだけ』だと言ったお前が何を言う気だ?」
竹織の瞳孔がギロリと動いた。
「恐れ入った……全くもってだ。神でもやらん事を、最初からやってのけようとするとはな……」
ゆっくりと歩を進め、竹織は紫陽花の目の前で止まった。背後に月を従え、夜闇に深紅の双眸を光らせる姿はさながら狼人間のようだった。
「死期を自在に操って構わんのなら、生き物は不老不死で在るべきだ。そうでない以上、その摂理を壊してはならん!」
竹織は牙を向け、吼えたけた。
「今のお前は、死神よりも死神らしい。己の力にかまけて他者の運命を操作するとは、まさに死神――〝死をもたらす神〟だな!!」
足先は紫陽花の顔の目前まで迫っていた。最初に会った時以上の恐怖が紫陽花の全身を支配する。殺気とも取れる凄まじい威圧感に、体中から嫌な汗が吹き出した。
「なによ……。勝手に連れてきてこんなことさせられて……そっちの都合で殺された私は棚にあげるわけ? ふざけんじゃないわよ……!!」
澄んだ夜風に乗って、その声は闇を切った。唸りをあげ、己を見下す死神を睨みつける。痛みを忘れ、怒りに震える体はいよいよ痙攣となって制御が効かなくなっていた。日暮れから感じ始めていた冷え込みも一層強まり、膝上十センチのスカートの下から冷気がじわじわと這い上がってくる。感覚が失せ、視界もぼやけてきていた。
沈黙が続いた。強いて言えば、遠慮がちに木の葉が囁きあっているだけだった。
「……ここの水を使えばすぐに傷が癒える」
竹織はマントを留めたピンを外して紫陽花にふわりと掛けた。そのまま紫陽花を通り過ぎて、木々のトンネルへ消えていった。
「これ以上居ると風邪をひく。そのみっともない顔を治したら早く戻ってこい」
「待ちなさいよ、この……悪魔!!」
「何とでも言え」
鬱蒼とした暗闇の彼方から響く声は夜風に馴染んで消えた。
まともに首を動かせない紫陽花は、前方の滝を睨みつけたまま拳で地面を叩いた。
背の臙脂マントはまだ温かさが残っていた。