1:友に出来ること

文字数 6,105文字

 砂子(いさご)病院は深夜診療も請け負っていることもあり、近隣の総合病院と比べても、敷地面積はずば抜けていた。中央棟の受付から入院病棟の東棟までは最短でも五分はかかってしまう。
 革製のカバンを小脇に抱え、朱里(しゅり)は真夏の街道を走っていた。
 約束している時間まであと七分もない。うーん、ヤバい。
 自動ドアを突き破る勢いで病院に駆け込むと、小さく足踏みをしながら息を整えつつ、部屋番号と患者名を早口に伝えて受付を済ませた。ピカピカに磨き上げられたタイルの床はローファーの音がよく響く。弾む息もそこそこに、音を立てぬよう東棟へ続く廊下を足早に歩いた。
 中庭を囲むように伸びる回廊は、片側が全面ガラス張り、反対側には患者が描いたであろう、人物や風景の絵画が飾られたギャラリーになっている。その為か、ほかの廊下よりも幅が広く取られ、解放感があった。鑑賞に立ち止まる人を避けながら、目的の部屋へ向かう一点しか見えていなかったせいで、向かいからやって来ていた約束の人物を思いきり素通りするところだった。
「あら、朱里ちゃん」
「あっ、こんにちは」朱里は急ブレーキをかけた。
 短く切りそろえた黒髪の女性が愛想よく微笑んだ。特別若く見えるわけではないが、スマートな体型のおかげで活発な印象を受ける。とても五十前とは思えない。
「すみません、遅れて……。あの、時間大丈夫ですか?」
 朱里は裾を整え、汗を拭いた。
「ええ。ちょうど今仕事先から連絡があって、時間が変わったの。おかげで思わぬ余裕が出来ちゃったんだけど、よかったらランチがてらお茶でもどう? 暑い中走って疲れたでしょう?」
 息が上がり、顔にぺったりと髪を張り付けた朱里を見て、女性はにっこりと笑いかけた。お構いなくと口を開きかけた時には手を引かれ、半ば強引に喫茶店へ連れ立った。
 東棟と中央棟の間にあるカフェテリアは、入院患者はもちろん、外部からの見舞客の憩いの場ともなっている。室内にウッドデッキをそのまま持ってきたような内装は、車椅子でも楽に移動出来るように、仕切りもほとんどなく、一つ一つのテーブルの間隔も広めに取られていた。テーブルや椅子などの家財も木材質のものが使われ、店全体が仄かな木の香り漂う癒しの空間だった。
 日差しを避け、中央付近の席を確保すると、日替わりサンドとアイスティーを二つずつ注文した。
「遠慮なくどーぞ。ここは私がおごってあげる」
「いえ、そんなっ」
 朱里は慌てて手を振ったが、女性はやんわりと首を振ってそれを制した。
「いいのよ。いつも娘がお世話になってます。ショウカったらこんな時まで迷惑かけちゃって、ほんと困った子ね」
「いえ、全然。冷房の効いた静かな部屋で勉強出来ますから」
 深々と頭を下げる親友の母に、朱里はまた慌てて「顔を上げてください」と言った。相手が高校生だとか子供だとか関係ないこの礼儀正しさは流石だと思うのだが。
 たまごサンドとツナサンドが乗ったワンプレートとアイスティーが届き、朱里はお言葉に甘えることにした。
「何か変わったことありました?」朱里は透き通るアイスティーを一口含んだ。
「ううん、相変わらずぐっすり寝ているわ」
 奈青(なお)はのんびりとたまごサンドに噛みついた。軽くトーストされた食パンと、惜しむことなく使われているたまごはほんのりとシナモンの香りがした。こんな事でも無ければ食べることがなかった絶品サンドに舌鼓を打ち「明日のカツサンドも楽しみだわ」などと暢気なことをぼやいていた。
 紫陽花(しょうか)当人は断固否定していたが、やはり親子だと朱里は思った。
 娘がこの病院に担ぎ込まれて一週間以上が経過し、一向に目覚める気配がないにも関わらず、目の前にいる母親は焦るどころか日に日に暢気になってきている。朱里の事にも理解があり、当時の状況説明をするのに「霊的な何か」の説明を迷いなく入れたが、そのせいなのか「じゃあ大丈夫ね」とあっさり言われ、呆れに等しい感情を抱いたのはよく覚えている。信じてくれていない訳ではないのだろうが、この状況で楽観的に過ごしていられるなど、朱里には想像出来なかった。
「朱里ちゃん? どうかしたの?」
 呼びかけられて、朱里は我に返った。ツナサンドを持ったままじっと見つめていたようだ。奈青が不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、いえ……」何でもないと偽ろうとしたがやめた。「あの……」
 踏み込みすぎかと悩みながら、誤魔化すようにツナサンドを小さくかじった。
「アジのこと、心配じゃないですか……?」
 恐る恐る上目で見ると、目を真ん丸くした奈青は芝居のように大仰に言った。
「心配だわあ。これで大学受験に間に合うのかしら」
「そっ、そうじゃなくて!」
 思わず吹き出しかけたツナサンドを、音を立てて飲み込んだ。奈青はクスクスと上品な笑いを漏らすと、少し困った顔をしながらアイスティーに手を伸ばした。ミルクを入れてクルクルかき混ぜると、透き通った琥珀色は渦を巻いて柔らかい褐色へ変わった。
「心配は心配だけど……。あの子、私に似すぎちゃったから。きっと『こんなこと滅多にないわ』とか言って楽しんでいるんじゃないかしら? そう思うとホラ、ハラハラしてるのがなんか馬鹿らしくなっちゃって」
 にっこり笑ってアイスティーを啜った。唖然としている朱里を、自分のもう一人の娘のように穏やかな眼差しで見つめた。
「あなたは言ってくれたわ。『あの事態で生きてるのだからきっと戻ってくる』って。私はそれを信じてる――親の感情とか抜きにしてもね。見えるあなたが言うんだもの。最初から、生き返らなかったらどうしようなんて、芽を摘むようなこと言ってたんじゃ本末転倒でしょう? 幸い体の異常は何もないようだし、私達がすべきは、ショウカが起きたらひっぱたく体力を常に付けておくことじゃないかしら?」
 最後の言葉に奈青は茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。朱里は小さく掠れ笑いをするのがやっとだった。
「……恐れ入りました」
「うふふ。女は度胸よ」
「あ。それアジも言いそう」
「あら、そう?」
 まるで同年代の友達のように二人はケラケラと笑いあった。
 いつか私もこんな親になれるだろうか……。
 ふと巡らせた思いに浸りながら、存在を思い出したようにツナサンドを頬張った。

  *  *  *

 奈青と別れた朱里は再び東棟への廊下を歩いた。東棟の一階は広さを要する診療科が集まり、二階からはすべて入院病棟になっている。リハビリテーション科の前を横切り、エレベーターを呼ぶと、慣れた手付きで六階を押した。通常の部屋には最高八人が生活を共にしている。エレベーターを降りてナースステーションを左へ曲がり、突き当たりの角へ到着するまでにあった十部屋は全部きっちり八人分の名札が出ていた。昨今の高齢化社会をこんな形で目にしようとは中々複雑な気分だと朱里は苦笑いを浮かべた。
 突き当たりを右に曲がると、正面に非常階段の扉が見えるほかは、左手にひとつ部屋があるだけだった。特別入院室と呼ばれ、一部屋一人収容の、言わばビップルームだ。各階にひとつ存在するその部屋の前で朱里は足を止めた。部屋番号の下には栗栖(くりす)紫陽花の名前があった。
 白い引き戸へ手を伸ばしかけた。と、朱里は静電気を感じたかのようにピタリと動きを止めた。
「まただ……」
 悪寒と高熱が入り混じったものが胸の辺りで突如生まれ、全身へと広がる感覚――霊と遭遇した時の感覚がビリビリと体中を駆け巡った。
 ファミレスでのあの事件以来、ほぼ毎日だ。決まって朱里が病室に居ない時に現れているようで、こうして戻ってきた時に遭遇する。何度か扉の隙間から覗いたが、いつもしばらく立ち尽くしたかと思うと、音も立てずに消え去っていく。慌てて部屋に駆け込んで、眠る紫陽花を確認してみても、特に変わった様子もなく寝息をたてるだけだった。
 朱里はいつものようにそっと引き戸を開け、数センチの隙間から部屋を覗いた。
 窓際に据えられたベッドで眠る紫陽花の傍らに一人、黒いコートに覆われた、影をそのまま立体化したような人物が静かに立っていた。フードを被っているうえ、逆光がひどくてますます黒い影にしか見えない。やがてぶつぶつと何かを呟くと、眠る紫陽花の胸元に片手を翳した。
 紫陽花の体から、ぼうっと幻想的な緑色の光を放たれた。朱里は恐怖に凍りつき、瞬きもせず、息を潜めて魅入っていた。
「――見えているのだろう。入ってくればいい」
 どのくらいの時間が経っただろうか。人影が、いつの間にか手を仕舞い、こちらを見ていた。朱里は「あっ」と悲鳴に似た声をあげると反射的に引き戸から離れた。見てはいけないものをみたような気分で唇を噛みしめると、躊躇いがちに引き戸を開けた。
 二十畳程の病室の片隅に黒い人影は立っていた。その横で紫陽花が死んだように眠り続けている。
「……いつも見ていたのは知っていた」
 人影がぼそりと口にした。フードと逆光でやはり顔は分からないが、深紅の双眸が宝石のように浮かび上がっていた。高く柔らかい口調は、流暢で心地よい響きを持っていたが、少し違和感を覚えた。電話に出る母親のような、よそ行き声だと朱里は思った。
「……いつも、じゃなかったわ」
 朱里は恐怖に震える拳を背に隠して平静を装った。
「そうか。……こうして話すのは初めてだな」
「そうね」拳に力が入る。「でも、会うのは二度目よ」
「……そうだな」人影は静かに答えた。
 一度遭遇した霊は基本覚えている。朱里は目の前の人影から目を離さなかった。
 忘れもしないあの日、ファミレスで紫陽花に鎌を振るったのは、間違いなくこいつだ。
 無駄に広い部屋の一角に、ベッドやテレビ台、そして黒い人影がいる所為か、部屋全体が傾いている気がした。
「いくつか聞いていい?」朱里は語気を強めた。
 こいつは紫陽花をこんな状態にした張本人だ。どういう風の吹きまわしか、有り難くも向こうから会話を持ち掛けてきたのだ。このまま黙って帰すもんですか。
「そっちにも事情はあるでしょう。私だって出来れば深入りしたくない。でも、一方的に跳ね返されるなら話は別。多少のリスクを負ってでも聞き出す覚悟はあるからね」
 恐怖は拭いきれない。霊相手に恐怖したなんていつぶりだろう。こいつが普通の霊でないことは分かっている。あの日の惨事を目の当たりにしたからなど関係無い。生物としての直感が言っているのだ――こいつは危険だと。
 頬を汗がにじり落ちた。
「――分かった。出来うる限り、答えよう」
 躊躇無い、はっきりとした返事だった。
 内心、断られると思っていた朱里は一瞬安堵の息を吐いた。すぐに頭を振って雑念を払うと、確かめるべくゆっくりと訊ねた。
「あなた、普通の霊じゃないわね?」
「ああ。死神……と言えば、理解頂けるだろうか」
 眼前の人影は深々と一礼した。
 やっぱりそうか。予想は出来ていた。朱里は小さく頷いて質問を続けた。
「紫陽花を連れて行ったはずのあなたが、どうしてここへ来る必要があるの? 紫陽花の体に何をしているの?」
 紫陽花は確かに魂を抜かれた。この目で見たのだから間違いない。けれど、実際のところ紫陽花は死んではいないのだ。あの時からずっと意識が戻っていないだけ。一度に取りきれず魂が残ってしまったのだろうか? それを度々取りに来ているのだろうか? それにしては随分と時間をかけているじゃないか。思わず毛が逆立つほどの力を感じる奴がそんな失態をするとは思えない。それに紫陽花の心拍数はいたって正常値だ。そもそも、本当に紫陽花は連れて行かれたのだろうか?
 探るように朱里は目を光らせた。死神はじっと朱里を見つめていたが、僅かに眉尻を下げた。
「すまないが、その問いには応じられない。今この場にいること自体、私の独断なのでな」
「紫陽花は……帰ってくるのよね?」
「今は何とも。……だが、私はこれ以上危害を加えるつもりは無いとだけ伝えておこう――信じなくて結構だ」
 朱里が眉を一層ひそめたので、死神は最後に低く付け加えた。深紅の双眸がうっすらと陰ったのが窺えた。
 朱里はしばらくその姿を凝視していたが、背中の拳は解いていた。
「そう……。わかったわ」
 そう言うと、ベッド脇のテレビ台にカバンを無造作に置いた。そのままパイプ椅子をガタガタと取り出して二つ並べると、不思議そうに見つめる死神に向かって言った。
「立ち話もなんだし、良かったらお茶でもどう?」
 にっこりと笑う朱里に、死神は目を丸くした。
「……なんのつもりだ?」
「え、何が?」
 片手間に返事をした朱里を、死神は理解の範疇を超えたとばかりの表情で見つめた。
「……私を叩きのめしはしないのか? 友を狩ったと分かっていながら、仇と思わないでもあるまい?」
 今度は朱里が目を丸くした。しばし無言で死神を見ていたが、やがてふっつりと糸が切れたように笑い出した。ひとしきり笑い終えると、うっすらと浮かんだ涙を拭いながら首を横に振った。
「あなたは身を挺して紫陽花を助けようとしてくれているんでしょう? 本当は悪い人じゃないのは分かるわ――私、カンもいいんだ」
 自分で言うのもなんですけどね、と笑いながら、朱里はテレビ台の引き出しから紙コップを取り出した。
「私は確認したかっただけよ、あなたの考え……というか人柄を。それに仇を討とうにも――触れないもの」
 一呼吸ためると、思いきり死神の胸元に紙コップを突き出した。腕は見事に死神の体を何の感触もなく突き抜けた。上へ下へ、右へ左へと突き抜けた腕を動かしても、死神は大して驚いていないようだ。朱里はぐるぐる空を引っ掻き回すと、諦めがついた顔でもう一度「お茶はいかが?」と訊ねた。
「……折角だが、あまり長居が出来ない身なのでな。厚意は有り難く受け取らせていただこう」
 死神はまた深々と一礼した。
「そっか」朱里は腕を引っ込めた。「じゃあまた時間のある時に」
 死神は小さく頷いて、ベッドで眠る紫陽花を見やった。
「……彼女を頼む」
 ありきたりで実に短い一言は、死神が成している事の重大さを語るに充分だった。
「私が出来るのは、横にいることだけなんだけどな」
「充分だ」
 短く告げると、死神はふわりと飛び上がり、閉まった窓をすり抜けて空へ駆け消えて行った。追うように窓を開けると、爽やかな風が朱里の髪を撫でた。
 出番の無くなった紙コップを快晴の空にかざして、朱里は友人の眠るベッドの端に腰かけた。強烈な太陽は紙コップの向こうにぼんやりと映っていた。
「『眼前(がんぜん)こそ(まこと)』か――いい教訓を残してくれたと思うわ。あんたの御先祖様は」
 そんな事は露知らず、紫陽花は微かに色づいた肌をてからせて静かな寝息を立てていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み