2:同期

文字数 4,773文字

 酸っぱい匂いが充満した部屋は、黒革の健康器具が密集し、迷路の如く行く手を制限していた。背の高いポール型の器具に隠れるようにして、タオルを抱えた紫陽花(しょうか)が立っている。
「ふっ……、ふうっ……!」
 ぼんやりと見つめる先には、専用マットに横になってバーベルを上げるカイがいる。汗を滴らせ、力を込めるたび血管が浮かび上がる。厚い胸板に割れた腹筋、逞しい腕に至るまで、絵に描いたような肉体美がその体に備わっていた。
「に……ひゃく!」
 ガシャンと戻されたバーベルと同時に、紫陽花は手にしたストップウォッチを止めた。
「十三分三十八秒」
「うおー……」
 カイが呻いた。ふんわりとした薄金の髪もすっかり汗で重みを増していた。荒い息を整えるべく、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。五回もしないうちにひょいと起き上った。
「さんきゅー、今日はこれで終わりだ。ちょっとそこで待ってて」
 紫陽花からタオルを受け取ると、そばのベンチを指差した。浴場へ入っていくカイの背中とストップウォッチを見比べながら、紫陽花はぽつりと呟いた。
「化け物……」
 バーベルの前には腹筋、背筋、腕立てを各々五百回ずつこなし、その前にはランニング十キロ、水泳二キロ、それから……。
 ともかく、それら全てをこなして二時間もかかっていないのだ。ベンチに腰掛けた紫陽花はうつむき、頭を抱えた。
「ふいー、さっぱりした」カイが戻ってきた。
「風呂も短いんかいっ!」紫陽花は顔を上げた。
「へ? なんか言った?」
「……別に」
 小首を傾げるカイをよそに、紫陽花は小さくため息を吐いた。
「あ、そっか。お礼まだだったなー」
 ひょうひょうと言って一旦浴場に戻ると、手に小瓶を二つ引っ提げて、十秒で戻ってきた。番台の「まいどー」の声が聞こえた。
「アジはコーヒーとフルーツ、どっちがいい?」
 ニカッと笑って陽気に訊ねるカイの手元の小瓶に、紫陽花の目がみるみる輝いた。
「ああぁああぁぁあー! そっ、それって……ビン牛乳!?
 嬉々とする紫陽花を、カイはポカンと眺めていた。
「あれえ? そんなに嬉しい?」
「ほ、本物だあ!」紫陽花は歓声をあげた。
 カイはフルーツ牛乳を手渡して、紫陽花の隣にどっかり腰掛けた。何十年と探していたお宝が見つかったように喜ぶ紫陽花を、不思議そうに見つめた。
「……もしかして、もう無い感じ?」
「うーん。ホラ、博覧会とかで見れたら超ラッキー! みたいな?」
「はあ、マジかあ。寂しい時代になったなー」
 紫陽花が苦戦しているのを見て、カイは自分の小瓶でフタを開けて見せた。そのままちょいとフタをなめてから、中身を一気に飲み干して豪快に口を拭った。紫陽花も倣ってフタをなめ、口を付けた。ほんのりと桃系の匂いが鼻をくすぐり、一口だけでも優しい味が口いっぱいに広がった。
「これ、コマ作れるんでしょ?」
「作れるぜ。あとで教えてやろっか?」
 フタをかざして大はしゃぎする紫陽花の頭を、カイはまたニカッと笑ってくしゃくしゃ撫でた。
「付き合ってくれてありがとな。アニスの奴、こういう汗臭いとこ全然来たがらないからさ」
「いつもここに?」
「時間ある時はそうだなー。体動かすほうが性に合ってるし……まあ、鍛えたところで仕事にはあんまり関係ないけどな」
 そう言って、カイは茶目っ気のある苦笑をした。
 紫陽花は面食らったように数回大きく瞬きすると、言葉を濁すようにあさっての方向へ視線を投げた。
「……てっきりもっと不真面目な人だと思ってた。アニスがいつも、油売ってるとか言うから……」
「あいつは俺が何してたってそう言うんだよ」
 カイは相当がっかりしたのか、大きなため息を吐いた。それから少し寂しそうな顔で天井を見上げた。
「でも仕方ねえさ。俺あんまり頭良くないし、アニスにとっちゃ、俺はいつまでもガキんちょなんだろうなあ」
「……カイとアニスって同じ時に来たんじゃないの?」
 なんだかんだと言いつつも随分と仲が良い二人だ。てっきり生前から知り合いなのだと思っていたが――そう言うと、カイは恐れ多いと言わんばかりに目を丸くした。
「全っ然! 俺まだこっちきて百年経ってないし、死神全体から見てもぺーぺーなんだぜ? アニスは……俺より百歳くらいばーさんじゃなかったかなあ」
 紫陽花がぎょっとして辺りを見回したので、カイはケラケラ笑って「ナイショな」とウインクして見せた。
 小瓶を返すとカイが片手を差し出した。紫陽花は少し考えてから後でいいと断った。あわよくば持って帰りたかった。
「――ま、強いて言えば、ここに来るのも補強のためってことになるのかなあ」
「補強?」
 自分の小瓶を番台に返して、カイはまた紫陽花の隣に腰かけた。
「死神の鎌ってさ、ただ霊体狩るだけじゃないんだぜ? ちゃんと護身も兼ねてる立派な武器だから、ここじゃ揉め事起きないようにって、いつもは門番に預けてるんだ。――アジは、預けっぱなしの鎌の強さって何で決まると思う?」
 突然の問いに驚きながら、紫陽花は前方に犇めいている革器具を見つめて考えた。
「……腕っ節じゃないってことよね?」
「うん、違うな」
 紫陽花は首を横に振った。カイは紫陽花の頭を撫でると、同じように革器具へ視線を移した。
「鎌の純度、性能、耐久度、ほか諸々。全部経歴次第なんだよ」
「経歴……?」
「そ。死神やってる時間の分だけ鎌は勝手に強くなるんだ。なんか釈然としない話だろ?」
 カイは肩をすくめた。紫陽花は確認するように呟きながら視線をカイのほうへ移した。
「それじゃあ……チコやアニスの鎌のほうが優秀ってこと?」
「ああ。俺の鎌なんざ、あいつらの前じゃ爪楊枝同然だな」
「そんな! カイ、こんなに鍛えてるのに――」
 熱り立った紫陽花の頭をカイはまたしても撫でてやった。抑えつけてくるその手は、それ以上の言葉を遮らせた。
「ありがとな。でも、ここは完全な縦社会だから仕方ないさ。足りない分はどこかで埋め合わせるしかねえんだ。ま、効果あるかは分かんねえけどさ。『継続は力なり』だろ?」
 カイはもう片方の腕で力瘤を見せる仕草をした。
 頭の上の手を払いのけて反論しようと口を開きかけた時、ツンとした声が通路に響いた。
「――アラ。そこに居るのはカイ坊じゃない? なあに? また新しい子連れちゃって。アニーに言いつけてやろうかしら?」
 背筋をピンと伸ばし、モデルさながらに闊歩しながら一人の女死神がやってきた。紫のアイシャドウをがっつり塗り込み、上げたまつ毛は瞼につきそうなほど長く煌めいている。暗い茶髪にブロンドのメッシュを入れた髪は顔を縦に二つ並べたようなシルエットにまで盛り上げ、肩に流れた髪はスプリングの如くカールしていた。
「そういう椿姉さんこそ、こんなところに一人で来たってことは男探しに来たんでしょ?」
「御名答」椿(つばき)は微笑んで、カイの体を愛おしそうに見つめた。
「相変わらずっすねえ――あ、大丈夫だよ。椿姉さんは俺の同期。見た目こんなだけどいい人だよ」
 反射的にカイの陰に隠れた紫陽花を見てカイが言った。椿は心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「こんなのとは酷いじゃない! そっちの子も、取って食いはしないから出て来なよ。アタシはただの筋肉フェチよ」
 苦虫を噛み潰した表情のまま紫陽花が顔を出した。ぼんやりと浮かんだ青い瞳に椿は目を細めた。面長で吊り目の顔立ちは狐そのものだ。
「あらまあ。【生き狩り】の子だったの。噂には聞いていたけど、実際に見ると驚きだわあ。ねえ、お嬢ちゃん、こっちに来てどのくらい経つの?」
「五日眠ったままで、起きてから一週間経つから、えーっと……」
「十二日です」
 指折り数え始めたカイを白い目で見ながら紫陽花が答えた。
「カイ坊……。足し算くらい出来なきゃダメよ?」
「俺、数学苦手なんだよお」カイが反論すると、
「さんすうだ」二人同時に答えた。
 頭を掻きながら、カイは立ち上がり椿に席を譲った。入れ替わって静かに腰掛けた椿からはほんのりと花の香りがした。意外と控えめな香水に紫陽花は少し驚いた。
「ふふ。こっちにはもう慣れた?」
 足を組み、頬杖をついて椿が訊いた。夜の女王オーラ全開の椿に最初はたじろいだが、香水といい口調といい、見かけ倒しもいいところだ。紫陽花は反応を見るように目を泳がせた後、小さく首を横に振った。答えを予想していたように、椿は上品に笑った。
「ここの奴らはみーんな死んだ時のままだから、見た目じゃ何も分からないわよねえ。そりゃあ混乱するはずよね。可哀想に。早く生き返れるといいわねえ」
 紫陽花は肩をピクリと震わせた。
「だよなあ。と言っても、こんな事例今までに無いし、どうなってるんだろ?」
「さあねえ。アニーなら知ってるんじゃあないの?」
「そうでもないみたいだぜ? あれこれ調べてるみたいだけどサッパリだってさ」
「あらそう……」椿は眉をひそめた。
 すっかり空になった小瓶を弄びながら、紫陽花は二人のやり取りを眺めていた。蚊帳の外状態の空気はむずむずする。目が覚めた時と同じだ。自分は訳がわからないのに、その隣でポンポンと話が進んでいくのはどうも苦手だ。しかも、あの時と違って、数日過ごした今は新たな疑問が浮かんでいる。
 紫陽花は小瓶を握りしめて、恐る恐る訊ねた。
「……ねえ。本当に私って生きてるの? 赤目じゃないから生きているんだって言われても実感無いし……」
 カイと椿は顔を見合わせた。特にしかめっ面で考え込んでいた椿は、一瞬驚きの顔を見せたが、すぐに考え込むのをやめ、紫陽花の目元にそっと人差し指を添えた。綺麗にネイルされた爪は長く、刺さりそうだ。
「まあ、そう思うのも無理はないわね。色もそうだけど、お嬢ちゃん、眩しさを感じるでしょう?」
「……? それが一体なんの関係が……」
「アタシ達は死人だから、もう瞳孔開ききっているのよ。だから眩しいという感覚が無い――極端に言えば太陽光を虫眼鏡で見たってへっちゃらってコトね。眩しさを感じるうちは生きている何よりの証拠よ。安心なさい」
「でも……」
 口を開きかけて紫陽花はうつむいた。椿の言う事が間違いだとは思わない。だが不安は口頭でなだめられて治まるものではないのだ。
 紫陽花の様子に、椿は当然よねと息をついてカイを上目にみやった。
「だったら、カイ坊。この子を試験場に連れて行ったらどう? 百聞は一見に如かず。今日は確か、最終試験をやっているでしょう?」
「おお!」カイがポンと打ち出を鳴らす。「よっしゃ。アジ、行こうぜ!」
「試験?」紫陽花は顔を仰け反らせて訝しげに繰り返した。
「死神認定試験よ。死神ってのは公務員みたいなものだからね。成るためには試験に合格しないといけないのよ?」
 椿は立ち上がって裾を軽く払うと、カイの唇にぐいと人差し指を乗せた。カイはたじろいで一歩後ずさった。ほとんど身長差の無い二人だが、やたら椿のほうが大きく見える。
「それじゃ、あとはカイ坊にお任せするけど……あーんまり黙って浮気していると、可愛いアニーが泣くわよお?」
「……人聞きの悪いこと言わないでよぅ」
 呻くカイから人差し指を離して、椿は満足げにクツクツ笑った。すっかり目を点にしている紫陽花に向き直ると、懐から椿の造花を取り出した。
「なんだか色々巻き起こしてくれそうねえ、お嬢ちゃん。困ったことがあったらアタシのところへいらっしゃい。出来る限り力になるわよ」
 呆然と立ち尽くす紫陽花の手に造花を握らせると、椿は後ろ手を振って去っていった。
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