5:告白

文字数 6,917文字

 五メートル。この距離が保たれて何分経っただろう。紫陽花(しょうか)は瞬きも忘れて対峙する緑都(ろくと)を見ていた。万人受けする優しい笑顔を向ける緑都を前に挨拶ひとつ出来ずにいた。生前と変わらぬ顔や口調。だが、美しい深緑色だった瞳はすっかり鮮血の色へ変わっていた。
 近寄りがたい雰囲気とは裏腹に、穏やかな口調は染み渡るように気持ちを和らげた。
「君のことは風の噂でしか聞いていなかったんだ。まさか事実だったとはね……。辛いだろうけれど、どうか心を強く持って欲しい」
 紫陽花の境遇を思ってか、色白のその顔には哀しみの影が差していた。
 闘技場の空気はひんやりとしていた。
「僕じゃなんの力にもなれないかもしれないけれど……」
 緑都は優しく微笑みかけた。懐かしささえ感じるそれは、ここが死者の世界だということを忘れてしまう力があった。
 紫陽花は顔が火照るのを感じた。まさかここでクラスメイトに、それも自分を好いていたという人物に会えるとは思ってもみなかった。
「……栗栖(くりす)さん? 大丈夫?」
 落ち着きない紫陽花が不調によるものだと思ったらしい。心配そうな面持ちで近づいてくる緑都に、紫陽花は慌てて首と手を一緒に振りながら、近づかれた分後ずさりした。
 首を傾げる緑都から目を逸らして紫陽花は口籠った。ますます心配そうに顔を曇らせた緑都がまた一歩踏み出したので、紫陽花は怒鳴るように叫んでそれを止めた。
「あ、あのっ! 朱里(しゅり)から、聞いたんだけど――!」
 裏返った声が部屋中に響いた。それが耳に届いて、紫陽花はまた口籠った。ただ心臓と体温だけが無駄に跳ね上がり、思うように呼吸が出来ない。うつむく紫陽花を緑都は面食らってしばらく凝視していた。
 紫陽花の息づかいが収束すると、部屋はまた静まり返った。
 沈黙に耐えかねたのは意外にも緑都のほうだった。恥ずかしそうに頬を軽く掻いて、彼にしては珍しく不明瞭な物言いで呟いた。
「……そっか。栗栖さんって吉木場(よしきば)さんと仲良かったよね」
 ボッと音を立てて、せっかく冷めてきた紫陽花の顔が真っ赤になった。
 緑都は一瞬目を丸くして「やっぱりそっか」と苦笑した。
「道理でよそよそしく感じる訳だ。これは気づかなくてごめんね」
 霊感の強い朱里が葬式の時に内原(うちはら)本人から聞いたこと。紫陽花があの日ファミレスで緑都を羨ましいと言わなかったら、朱里の口から聞くことは無かったかもしれないこと――それを確かめる時が今、目の前にある。
 紫陽花の心臓が再び大きく跳ねた。まるで自分が告白でもするかのように、まごまごしながらやっとの思いで出てきたのは単語、それも代名詞だけだった。
「……その……あのことは……」
 この場においてこれだけで会話が成り立ったのは、思春期の彼らにとって実にシンプルで重要な議題であったからと、緑都の落ち着きぶりが秀逸を極めていたからだろう。
 緑都は軽く咳払いをしてから紫陽花を真っ直ぐ見つめて「本当だよ」と即答した。
「だってとても魅力的じゃないか。自分の志をしっかり持っていてきらきらとしている。僕はそんな君のことが好きだ」
 真剣な顔で答える緑都に今度は頭が真っ白になった。朱里から話を聞いた時も相当驚いたが、まさか本人からこんなに直球でベタな告白を受けることになろうとは。いやそれよりも、内原が自分から言うタイプだったなんて、人は見かけによらないものだ。
 しばらくして我に返った紫陽花は髪がボサボサになる勢いで頭を振った。そして細長い指をびしっと緑都に向けて叫んだ。
「そっ、そんなの今言われたってどうしろというのよ!?
「あはは。まったくだ」
 冗談めかして陽気に笑っていたが、顔は真剣そのものだった。
「でも良かった。直接言うことが出来て。未練がましい未練は残していないつもりだったけど、君に想いを伝えられなかったのは悔やんでいたんだ。こんなチャンスが来るとは思っていなかったよ」
 紫陽花は力が抜けたようにのろのろと腕を下ろした。
「いつも明るくて、みんなを引っ張っていく君は、僕にとってすごく眩しい存在で、憧れたんだ」
「そ、それはあんたの勝手なイメージじゃない。わ、私は内原みたいに優等生でもなんでもない普通の女子高生よ。面倒な事は嫌いだし、時間にルーズだってみんな言うもの……」
「優等生かどうかなんて恋愛には関係ないさ。思ったよりずっと謙虚なのは少し驚いたけれど」
 今や完全に緑都のペースに呑まれてしまっていた。うろたえる紫陽花とは対照的に、落ち着き払った保護者のような立ち居振る舞いの緑都は、とても告白する側の態度ではない。それがますます紫陽花をパニックに陥れていた。
「だ、大体、みんなから慕われているような人が憧れだなんておかしいわよ!」
「いやいや。僕は慕われてなんかいないよ。最初からね」
「それに……分かってるの? 私が、返事出来ないってこと……」
「もちろん」これもまた即答だった。「もう死んだのだから当然さ。自分の想いを伝えられただけで僕は充分満足だよ。これ以上望むのは贅沢というものだろうしね。あまり深く考えなくていいんだ。聞き流してくれていいし、成仏の手伝いだと思ってくれて構わない」
 紫陽花の時が、刹那、止まった。
 ――……?
 どうしてこんなにも笑っていられるのだろう?
 想いを寄せる相手から望む返事が来ないと分かっていながら、どうしてそんなに変わりなく接していられる?
 そもそも緑都のことなどほとんど知らない。まともに話したことだって今が初めてだと言っていいくらいだ。それなのに緑都は紫陽花の性格を的確に把握しているうえ、心の内を見透かしたような物言いだ。まるでひとつ高いところから見下ろされているみたいに。
 紫陽花の身が静かに強張った。
 今、紫陽花と相見えているのは確かに緑都のはずなのに、その姿はとても人間から離れているように感じた。内原緑都という一人の人間の入れ物に機械を詰め込んだ人形のようで、何もかも完璧で、感情が抜け落ちた非の打ちどころのない存在は、ホログラムのようにそこに居るように見えるだけに感じてしまう。
 静止画になった紫陽花に、緑都は少し寂しそうな表情を向けた。
「……すまない。僕の願望のために君を巻きこんでしまったね。言い訳がましいけれど、僕は君を困らせたいわけじゃない。生前あまり話すことが無かったから、普通に話してみたかっただけなんだ。……人付き合いが上手くないのは死んでも変わらないようだ」
 緑都は茶目っ気を交えた顔で「参ったね」とぼやいた。
 気のせいだ――紫陽花は胸を撫で下ろした。
 やはり内原は優しい青年だ。こんな時まで他人の気遣いに徹するなんてよほどのお人好しだ。さっきの違和感は内原を知らなすぎる所為だったのだろう。元々不思議な奴だったじゃないか。内原特有の雰囲気に少し驚いただけだ。
 すっと体が軽くなると、話したいことは自然と沸いてきた。行きつけの喫茶店はどんなところ? どうして自殺なんかしたの? 朱里と話した時どんな思いだったの? それから――
 だが、紫陽花にはそれらよりも聞いてみたいことがあった。
「あの……ずっと、聞きたかったんだけど……いいかな?」
「もちろん。なんだい?」
 緑都は快く、穏やかな口調で応える。
 生前最後の交流となってしまったたった一言の筆談。ずっとうわの空で眺めていた景色に、一体何を見ていたのか。
 紫陽花は数日前の授業内容を聞く気持ちで訊ねた。
「授業中にメモ渡した時のこと、覚えてる? あの時『空になりたい』って書いたのは、どうしてなのかなって――」




「………………ソラ?」




 ピリリと空気が鳴いた。
 妙な間に、紫陽花は思わず息を呑んだ。
 顔をあげると緑都はにこやかな表情のままだった。が、よく見ると僅かに開けた目を細めている。能面が張り付いたような笑顔に、紫陽花の背筋が嫌なざわつきを感じた。
 今までと変わらぬ口ぶりのはずなのに、異様なまでに低くはっきりと耳に届いた声。柔らかな印象とはまるで違う物言いに紫陽花は身震いした。緑都の刺さる視線にうろたえながら、やがて小さく頷いた。
 冷たく痺れる空気が肌に纏わりつく。窓と呼べる窓も、空調も無いこの部屋で、紫陽花は寒気に震え、鳥肌を立てていた。
「ふっ……ははははははっ!」
 静寂を破り、緑都は笑い出した。その声は石造りの壁という壁に跳ね返り、不協和音となって部屋中に満ち溢れた。
「そうかそうか……」
 額を押さえて笑いを収束させながら、大股で紫陽花へ一歩一歩近付いた。冷や汗を滴らせ、拳を握りしめて身構える紫陽花の顎を乱暴に掴んで固定した。
「なっ……!?
「君には失望したよ。君ならきっと分かってくれると思っていたのに……残念だ」
 顔を数センチまで近付け、緑都は吐き捨てるように言った。増した握力に、紫陽花の恐怖の悲鳴は呻きに変わった。
「う……ち、はら……?」
「まあ、おてんばさんなのは承知していたし、理解してもらえるなんて、淡い期待だったから構わないけどね――」
 紫陽花の顎を僅かに持ち上げ、唇を寄せた。
「……い……やッ!!
 押しのけようともがいた紫陽花の腕はあっさりと掴み止められた。体は成す術なく抱き寄せられ、互いに息がかかるほどに小綺麗な顔は迫っている。
 紫陽花はじわりと浮かんだ涙と一緒に硬く目を瞑った。


「――その辺にしといてやれ」


 低くよく通る声に、緑都はピタリと止まった。横目で入口を確認すると、鼻先で笑ってゆっくりと紫陽花を離した。紫陽花は逃げるように緑都から離れたが、数歩も行かない内にぺたりと床に座り込んだ。
「いいところだったのになあ」緑都は愉快そうに言った。
「それは邪魔してすまなかったな」
 竹織(たけおり)は平たく言うと、目に涙を溜めて震える紫陽花を一瞥した。
 いつもの黒コートと臙脂マントに着替え、錫杖のようにたわわに纏めた鍵束を手にしていた。
「さすが試験官さん。気配を消して立ち聞きなんてお手のものですね」
 竹織は緑都を睨みつけた。
「お前は減らず口を叩くのに長けているようだな」
「あはは。やだなあ。せめて饒舌と言ってくださいよ」
 竹織はため息をついて闘技場に入ると紫陽花の背後に回った。紫陽花は過呼吸を起こし、胸に手を当てたまま動き方を忘れたように緑都を凝視して喘いでいる。すきま風のような嫌な音が口から漏れていた。
「――あまりこいつを茶化さないでもらおうか」
 竹織は鍵束を脇に置くと、うずくまる紫陽花の口を手で覆い、もう片方でその背中をさすってやった。
「ふふ。それは嫉妬ですか?」
「くだらん」竹織は眉一つ動かさず淡々と答える。「これ以上こいつが動揺するようでは、今後の仕事に差し支えるだけだ」
 紫陽花の呼吸が正常に戻り始めた。竹織は背中を軽く叩いてやると、鍵束を拾い上げてスタスタとまた入口へ歩き出した。
「仕事ですか。また随分と事務的な言い分ですね」
 柔らかな笑顔を崩すことなく緑都は言った。それが純粋な笑顔でないことは、もはやこの場の全員が読み取っていた。
「試験官さん。あなたも人ならば、もっとパートナーに優しく接するべきでは? 彼女が畏縮した生活をしなければいけない理由は無いでしょう?」
 竹織は歩みを止め、面倒くさそうな目つきで緑都を見た。愉快に笑う緑都を前に不愉快だと無言で語る。紫陽花は息が詰まる空気の中、どうかこの場に第三者が現れてくれればと願った。
「馴れ合いを楽しむものではないと承知しているはずだな?」
「もちろんですよ」緑都は気楽に言った。「ここの法律もとても奥深くて学び甲斐がありました。全て把握するのに少し時間がかかってしまいましたけど」
 緑都はゆっくりとした足取りで闘技場の中心へ戻った。くるりと向き直ると、出来の悪い生徒を屈伏させる笑みを浮かべて紫陽花を見おろした。
「僕はね、栗栖さん。ソラになりたかったんじゃないよ。からっぽに……カラ(・・)になりたかったんだ。反論が許されない、男は医者であるべきだなんてくだらない伝統を掲げた家で、僕の人生は死んだように暗いものだった。代々の風習が、世間体が、名誉が全てなのさ。ほんの一時だって、家族が僕の意見を聞いてくれた事なんて無かった。だからこそ、自分の意思を曲げない、言いたいことははっきり言える君がずっと羨ましかった」
 緑都は天窓を見上げた。差し込む光がうっすらとした色味を帯びている。
「相手にされないと解った時から、生きることが退屈になってきた。いい成績を取れば家族は御満悦。手塩にかけて育てた犬が利口だと証明されたんだからね。……ほんと馬鹿馬鹿しい話さ。嫌なら白紙で出せばいいだけなのに出来ないんだ。それが性ってやつなんだろうね。だからもう、死ぬしか道はないと思った――その時だよ。電話がかかってきたのは。おかげでやっと僕はこの呪縛から解放された。塞がれてた探究心や好奇心は目を覚まし、それを満たす為に死法(しほう)を学んだ――死神になった理由はそんなところかな?」
 緑都はにっこりと笑った。小学生が参観日に作文を発表するような、異様なまでに純粋な笑みだった。
 紫陽花は愕然としてかつてのクラスメイトを見ていた。
 これが……あの内原?
 口数は少なくておとなしくて、誰に対しても爽やかな笑顔を向け、成績も人柄も良く、クラスにとどまらず絶大な信頼を得ていた好青年――紫陽花の知る緑都はそんな人だったはずだ。
 こんな、人を見下すことはしなかったはずだ。
 こんな、狂気を楽しむ化け物ではなかったはずだ。

 死んで変わったのは瞳の色だけではなかったというのか――!

 うつむいて歯を食いしばる紫陽花を緑都は満足そうに見つめた。竹織は抉るように緑都を瞬きもせずに睨みつけている。
「出来ることなら、あんな家の伝統が二度と掲げられないようにしてやりたいね。そうだなあ、例えば……死期を伸ばしてみるとかどうだろ――」






 ――ジャラッ!!







 突風が吹いた。
 息つく暇もなく、竹織が目を血走らせて緑都の首を掴み上げていた。仰け反る緑都の首には先の鋭い爪が食い込んでいる。手にした鍵束がけたたましい音を立てた。
「――その言葉が(まこと)なら、今すぐこの手で貴様を堕とすぞッ!!
 重低音の一言と同時に食い込みが深くなった。紫陽花が「ひっ」と悲鳴を漏らす。緑都は呻き声を上げたが、相変わらず口の端を吊り上げていた。
「合格を……出したのはあなたですよ……?」
「確かに能力・知力は申し分ないな。だが……」竹織はギロリと目を光らせた。「動機次第では、事が起こる前に芽を摘むまでだ」
 緑都はなんとか竹織に目線だけ向けると、怒り猛る竹織を楽しむように言った。
「解りませんねえ……。仕事人間なあなたが、そこまで感情的になる理由が……」
 竹織の肩が僅かに震えた。一瞬、動揺に目が泳いだのを紫陽花も緑都も見逃さなかった。
 こればかりは紫陽花も緑都に同感だった。死期を延ばせば輪廻から外れ生まれ変われなくなる――人の運命を左右する行為は禁じられているとアニスに教えてもらい、一時は納得したものの、やはり変だ。紫陽花がやらかしかけたあの時も、嫌に手が出るのが早いと思ってはいたが……。
 今の竹織なら躊躇いなく緑都を殺せる。
 小柄な身体のどこにしまっていたのか疑うほどの明らかな殺気が、彼の体の何倍にも膨れ上がって溢れているのが見て取れるようだった。
「……知ったところでどうする」
 自身を落ち着かせるように竹織はゆっくりと言った。
「別に……どうにもしませんけどね……。でもほら……彼女も随分……聞きたそうですよ……?」
 喘ぎ喘ぎに言う緑都だが、次に竹織がどう出るか心底楽しんでいるようだ。己が消されるかもしれないことを危惧する様子は微塵もない。
 名指しされて恐怖に取り付かれた紫陽花を竹織はちらと横目で見た。未だ腰を抜かして震える少女は、何か言いたそうに口をパクパクさせていたが声は嗚咽になるばかりだった。
 竹織は目を閉じ、音にならない長いため息をひとつ吐いて緑都を離した。崩れ落ちた緑都は首を抑え、安堵の混じった深呼吸を繰り返した。
「……悪趣味な奴だ」
 軽蔑の眼差しで言うと、竹織は鍵束を持ち替えた。
「悪趣味だなんてそんな。僕らはただ、あなたがそこまで死期の延長に神経質な理由が知りたいだけですよ」
 緑都の顔には核心に迫った喜びがありありと窺えた。
「……知れたこと」
 竹織は嘲るように吐き捨てた。人生最大の汚点だと言うように。

「俺自身が輪廻から外れているからだ!」

「――――――!!

 海の底へ沈められたような空気。
 雷鳴がどこか彼方で轟いていた。
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