生き狩り

文字数 1,728文字

 部屋に戻るなり紫苑(しおん)は眉を潜めた。
 彼女の視界には積み上がった書類の山しか映っていない。
「紫苑。お茶」
 姿なく発せられる死神王(ししんのう)の声に、紫苑は疲れたため息を吐いた。
 眼鏡を正して書類の山脈が連なる机の横へ回る。案の定、やる気の失せた小柄な男がだらりと机上にうなだれていた。
「……仕事してください」
「お茶くれたら十件やるよ」
 いつものことだ。やる気があれば物凄く手際いいのに、一度スイッチが切れると復帰までが長い。こうなってしまっては何を言っても進展しないのは、この男の秘書を務めて百何十年と経っている彼女にはうんざりするほど身に染みていた。
「……分かりました。ミルクティーでいいですか?」
「ああ。今日はかなり甘めで頼むよ」
 芳醇な紅茶を差し出す。死神王は礼を述べてそれを口にすると長い息を吐いた。
「君の淹れるお茶はいつ飲んでも美味しいね」
「口よりも手を動かして欲しいのですが」
「……君もすっかり秘書が板に付いたね。いつも畏縮していた頃が懐かしいな」
「昔のことです。今更持ち出さないでください」
 ピシャリと言い放ち、紫苑は自分の机に戻って黙々と仕事を開始した。彼女に一筆加えられた書類たちが空を飛ぶように次々と左から右へ流れ、新たな山を成していく。
 清流のようにさらさらと響く筆の音が、ひっそりとした部屋にはよく馴染む。
 散らかった書類を束ねていた死神王が、おもむろに口を開いた。
「――例の件はどうなっている?」
 綺麗に一時停止した紫苑の瞳が僅かに開いた。流れの止まった書類の塔が不穏に揺れる。
「……書類に関してはすべて手配し処理しました。問題はありません。あとは――」
「試験の成果次第か……。いやはや、長かった。ここまで来れたのも紫苑、君が居てくれたからこそだ。礼を言うよ」
「………………本当に実行するおつもりですか?」
 長い沈黙の末、紫苑は呟くように訊ねた。作業の手が止まったペン先にじわりとインクが溜まっていく。
「相変わらずの心配症だな、君は」死神王は苦笑して、また一口紅茶を飲んだ。「君もよく身に染みているだろう。昨今の生者界の実状を。平和を掲げながら耐えない内面の醜い争いが招く自殺や殺人。時代に合わせて法を変えていくことはもはや必要不可欠なことなんだ。心配は要らない。王たる私に出来ないことなどないのだから」
 インクが落ちた。黒いシミが音もなくその範囲を広げていく。
 紫苑はまだしばらく黙っていたが、ペンを瓶に戻すと立ち上がり、積んでいた書類の山から一枚を引っ張り出して死神王の机へ向かった。履歴書のようなそれには、びっしりと字のひしめいた年表と、綺麗な多角形を描いたグラフが並んでいる。
 書類を差し出して、紫苑は機械のような平坦な声で告げた。
「――ご希望の才知・身体能力・容姿を考慮し、彼女を第一被検体として推薦します」
 死神王は一瞬紫苑を見あげ、書類を手に取った。年表を流し見た後、顔写真に目を移す。
 何の変哲もない黒髪少女の写真。だが、彼女の人形のような青い瞳は異様なまでに男の心を惹きつけた。
「――栗栖(くりす)紫陽花(しょうか)か……うん、悪くない。さすがだ紫苑。君に任せて正解だったよ」
 静かに頭を下げる紫苑に満足げに微笑んで、死神王は引き出しから金色の革張りの手帳を取り出した。辞典並の厚さがある手帳には同じ月ばかりが何百と続いている中、目的の場所は幾度となく開いているのだろう。癖付いたページはひとりでに姿を現した。
 読めないほど小さな文字がみっちりと詰まったカレンダーは、今日のところだけぽっかりと白くなっていた。
「ああ。相変わらず多忙のようだが……まあいいだろう。紫苑。急だけどもうひとつ仕事を頼むよ。今日しか都合がつかないようだ――」
 手帳と書類を並べ、死神王は不敵な笑みを浮かべた。
「〝狩人〟を呼んでくれ。大事な話があるんだ」
 開かれた〝漆黒(しっこく)狩人(かりうど)〟の勤務表。片隅に貼られた写真には、その異名に相応しい髪色の死神が無表情にこちらを見つめている。
 頭をあげた紫苑の顔に、はっきりとした悲愴感が漂った。
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