序章

文字数 4,895文字

 空になりたい。

 七月最初の週末は、一学期最後の模擬試験だった。
 内原(うちはら)(ろく)()は、炎天下の砂子(いさご)市内を一人歩いていた。自己採点の結果を眺めながら短いため息をつくと、用紙を真っ二つに割いた。
「まったく、嫌になるね……」
 力なく笑顔を浮かべて呟いたその言葉に、悲しさや苛立ちは微塵も無い。正式な結果は二学期にもらうことになっているが、緑都には必要なかった。
 学年一位。高校初めての模擬試験からこれまで一度も変わっていない。おそらく、これからも変わることはないだろう。
 緑都が通う茅城(かやしろ)高校は、全国的にも有名な進学校だ。学校のレベルが低いわけではない。そして、緑都自身がとりわけ頭のいい生徒というわけでもなかった。
 先祖代々、医学に関わる仕事をしてきた内原家では、男児は医者になることが暗黙の了解となっていた。緑都も当然のようにそのことを暗示されて育ち、勉学に励んできた。家族から多大な期待を持たれ、幼い頃から勉学に励んでいたため、人より飲み込みが早かったが、緑都自身は勉強が大嫌いだった。しかし、内気な性格から裏切るようなことは出来なかった。
 ため息の回数が増えた。家へと向かう足取りが極端に重くなり、一歩踏み出すのにかなりの体力を必要とした。じりじりと照りつける日差しが、汗と一緒に体力も流れ落としていくのが分かる。
 このまま僕が帰らなかったら、家族はどんな反応をするかな。
 ふと、そんな考えが頭を過ぎったが、すぐさま吹き飛んだ。僕は何を分かりきったことを考えているんだろう。僕は内原家の一人息子なんだから、慌てふためくに決まっているじゃないか――。
 内原家の伝統が絶たれる、と。
 ため息交じりの乾いた笑いは周囲の雑音に掻き消された。渡ろうとした信号は赤に変わり、トラックが行く手を塞ぐように走り去った。向かいにそびえ立つ全面ガラス張りの高層ビルは、真南にある太陽の光を反射して音も無く体感温度を上げていく。
 真っ昼間から僕は何故こんな所にいるのだろう。何故信号は赤になると止まらなくてはならないんだろう。頭がくらくらして、何が何だか分からない。そのうち自分の名前さえも分からなくなってしまうかもしれない……。モヤモヤとした頭の中で、それでもはっきりと、揺らぐことの無い考えが一つだけあった。

 空になりたい。

 信号が、青に変わった。
 だが、緑都は青に変わると同時に向きを変え、そのまま歩道に沿って歩き出した。
 どうせ帰ってもやることなんて勉強くらいだ。寄り道した方が気分転換になっていいかもしれない……。
 車の行き交う音が一層大きくなり、正面に交差点が見えてきた。ここら一帯で最も大きいスクランブル交差点だ。平日だろうと休日だろうと、昼だろうと夜だろうと、利用者の数に大きな違いがないことで知られている。緑都は車の流れを目で追いながら、交差点の角にある、大きなガラス窓の喫茶店の前で足を止めた。
 騒がしい交差点の目の前に建っているのが嘘のように、クリーム色の外壁を持つ建物はひっそりと佇んでいた。黒く塗られた木製の案内板に、白文字で『fromage』と綺麗な筆記体が踊っている。建物に沿って作られている赤レンガの花壇に植えられた色とりどりの花は、日差しを浴びてより鮮やかに目に映る。花にそれほど詳しくはないが、細く鋭い花びらからキク科の花だということは分かった。こういった小さな所からでも、その店のオーナーがどんな人柄かというのは分かってしまうものだ。緑都は小さく笑うと、金のドアノブがついた西洋風の黒い扉を押して中に入った。
 カラン。
 ドアに付けられた小さなベルが軽い音を立てた。
 店内はスローテンポのジャズが流れ、白と黒を基調にしたテーブルやライトがモダンな雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ――おや、緑都君じゃないか。今日は土曜日なのに学校かい?」
 淵のない小さめの眼鏡をかけた男性がカウンターの向こうからにこやかに話しかけた。夜になればバーと化すこの喫茶店は、客の年齢層が限られており、街のど真ん中にありながら緑都のような学生が来ることはほとんどない。落ち着いた雰囲気が気に入って何度か足を運んだ結果、緑都はすぐに顔を覚えられた。
「今日は模試だったんだ」
 きっちりと扉を閉めて振り返ると「参ったね」というように大袈裟に肩をすくめてみせた。
「ははは。学生さんは大変だね。さあどうぞ。いつもの席空いているよ」
「ありがと、マスター。今日は暑いからアイスコーヒーね」
「かしこまりました」
 カウンター奥のキッチンへと入っていくマスターの姿を見送って、緑都は店の入り口から一番遠いカウンター席へ向かった。店の北と東は一面窓ガラスで基本的に外から店の中は丸見えだが、唯一死角となるのがこの席。そして、店内全体を最もよく見渡すことが出来るのもこの席だ。人目を気にすることなく過ごせるというのは、本当に嬉しい。
 席を二つ陣取ると、自分は壁側に座り、隣の席にはカバンを置いた。黒い大理石で出来たカウンターはひんやりとしていて気持ちいい。緑都は頬杖をついて店内をぼんやりと眺めた。
 アンティークな家具でそろえられた店内は広々としている割に席数が少ない。ちょうど頃合いの時間帯だけに、ほぼ満席状態だが客の人数はそれほど多くない。『お客様にゆったりとした時間を』をモットーにしているマスターの配慮が店全体に施されているのが伝わってくる。
 こんな時間が家にもあればいいのに――
 思っても仕方ないことだと分かっているのに、思わずにはいられない。小さくため息をついた時、マスターがカウンター奥から戻ってきた。
「お待たせ致しました。アイスコーヒーです」
 氷で満たされた口の大きいグラスにフラスコの中のコーヒーをゆっくりと注ぐと、手早くコースターを敷いて緑都の前に差し出した。緑都がブラックしか飲まないことを知っているマスターは最初からミルクやガムシロップを持ってこない。ストローだけをグラスの横に添えると、緑都を心配そうに見つめた。
「大丈夫かい? 緑都くん、随分と疲れた顔に見えるけど……」
「そう? 気のせいだよ。模試が終わったばかりで、そんな風に見えるんじゃないかな」
 緑都は出来るだけ平静を装って答えると、ストローを袋から出してコーヒーを軽く混ぜた。
 氷がカラカラと音を立てる。
 マスターには緑都が無理をしているとお見通しなのだろう。何か言いたそうに口を開きかけたが、他の客に呼ばれて、話は中断せざるを得なくなった。マスターは小さく咳払いすると困ったような笑顔を緑都に向けた。
「それならいいんだけど……でも、何か悩み事があったら遠慮しないで相談してね。あまり一人で抱え込まないように。――それじゃ、どうぞごゆっくり」
「うん、分かったよ。ありがと、マスター」
 軽く手を振ってマスターを見送ると、緑都は冷えたコーヒーを口に含んだ。疲れているときに酸っぱい物を食べると甘く感じるが、苦いものは苦いままだ。むしろ、苦さが増して感じる。好きなコーヒーの苦味さえむせ返りそうだ。
 僕はそんなに疲れているのか……。
 緑都は一息つくと再び店内をぼんやりと眺めた。ふとその時、一番近くのテーブル席に座っている二人の女性が食べているケーキに目が止まった。
 薄黄色のスポンジに一層の白いクリームが挟まれたショートケーキ。一見普通に見えるが、上に塗られたクリームはほんのりと橙色で、メインのフルーツは苺ではなく柑橘類だ。生クリームに夏蜜柑を混ぜ込んだ今夏の新作だと、以前マスターが話していた。スポンジに挟まれているのはおそらくクリームチーズだろう。
 店の名前を『fromage』にするくらいチーズ好きなマスターは、作るケーキに必ずチーズを混ぜ込む。それはクリームだったりスポンジだったり、とにかく一つのアクセントとしてどこかに混ぜ込まれている。味も然ることながら、まるで宝探しのようだとお客の反応は上々だという。
 そういえば一度も食べたことないな、マスターのケーキ……。
 カラン。
 飲み干したアイスコーヒーの氷が軽い音を立てた。
 帰りたくないな……。
 憂鬱な気分で溶けかけた氷を眺めていた時、ズボンのポケットが小さく震えるのを感じた――電話だ。
 緑都はストローを口にくわえたまま手探りで携帯電話を取り出した――非通知だ。名前の代わりに並ぶ番号に一瞬顔をしかめたが、躊躇うことなく電話に出た。
「もしもし」
『初めまして、こんにちは。そちら、内原緑都さんの携帯で間違いないでしょうか?』
「……はい」
 しっかりとした女の声。だが、その声に聞き覚えは全くない。
 ……どうして僕の番号を、名前を知っているのだろう?
 疑問は、すぐに吹き飛んだ。
 その電話を、緑都は切らなかった。しばらくの間、相槌も打たずにただ黙々と、一方的に喋る電話に耳を傾け続けた。
 どれくらいの時間が経っただろうか。店の時計が三時の鐘を鳴らす頃、緑都は「分かりました」とだけ呟いて電話を切った。
 携帯電話をポケットにしまうと、思い直したように、側にあったメニューを手にとって眺めた。
 やっぱり、せっかくだから食べておこう――
 緑都は近くを通ったウエイターを呼び止めて、先刻女性が食べていた新作ケーキを注文した。
 カラン。
 形を崩した氷が再び音を立てる。
 ウエイターから注文を聞いたマスターが目を丸くしてこちらを見ているのが分かったが、気付かないふりをした。
 運ばれてきたケーキはほのかに酸っぱい匂いがした。だが口に含んだ瞬間、甘さが口全体にゆっくりと広がっていくのが分かった。
 空席を待つ客が出始める頃になって、緑都は荷物をまとめるとレジへ向かった。
「九百二十四円で御座います」
 財布の中を見ると、特に確認したわけではなく、九百二十四円丁度の小銭が入っていた。先月の小遣いの余りを入れていただけの財布にお札はない。まさに丁度――からっぽだった。
 これも運命かな……。
 代金を渡してレシートをもらうと、綺麗に折りたたんで財布の中にしまった。
「ごちそうさま。マスター、ケーキ美味しかったよ。もちろんコーヒーもね。それじゃ、ありがとう!」
「緑都君……?」
 やはり様子がおかしい。直感的にそう思ったマスターは、軽く手を振ってスタスタと店を後にする緑都を呼び止めようとしたが、もはや周囲の音が聞こえていないかのように、緑都は扉をバタンと閉めた。
 外は相変わらず賑やかだった。緑都は喫茶店の扉に力なくもたれ掛かって俯くと、先程かかってきた電話を思い出した。電話の女の、はきはきとした声が耳に響く。
 もし、あの電話が本当なら……。
 緑都の顔に笑みが浮かんだ。
 扉から背を離して自力で立つと空を見上げた。
 今の僕は、この空のように晴れ晴れとしていて気分がいい。だから――
 澄み切った空、緑都は車が行き交う交差点へと駆け出した。

 空になりたい。


 カラに、なりたい――



 一時間後。
 有名なスクランブル交差点が、止まった。
 立入禁止の黄色いテープが『fromage』を中心に交差点一帯を囲み、現場検証が行われた。
 土曜の昼下がり、交差点にいたほとんどの人々が目撃者だった。
 飛び出しによる自殺。
 誰もが、それで終わると思っていた。
 青年――緑都の携帯電話が押収されるまでは。
 緑都が、自殺することを誰かに打ち明けていないか――それを調べるために押収された携帯電話。その最後の着信履歴に、警察の顔は青ざめた。
 携帯からかけられたと思われる十一桁の番号――それは今、世間を騒がせている、あるはずのないもの(・・・・・・・・・)だった。
 十一桁すべて四の番号。その電話が来ると、四日以内に必ず死ぬという。

 通称――【死の電話(デスコール)】。
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